梁鴻志


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梁 鴻志(りょう こうし、簡体字Template:lang?繁体字Template:lang?ピンインTemplate:lang?1882年 - 1946年11月9日)は、中国中華民国時代の政治家。字は衆異福建省長楽県(現在の福州市長楽市)の人。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳を務めたことで知られる。

事跡

安徽派時代

6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後の光緒29年(1903年)に挙人となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。

民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段芝貴の秘書長を務めた。この間に、王揖唐と親交を結び、民国7年(1918年)3月に王が安福倶楽部を創始すると、梁もこれに加わり、さらに参議院議員に当選した。後に、参議院秘書長に就任している。民国9年(1920年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、梁も指名手配されたため、天津の日本租界に逃げ込んだ。

民国13年(1924年)10月の北京政変(首都革命)で段祺瑞が臨時執政として復権すると、梁鴻志も臨時執政秘書長に就任した。しかし、民国14年(1925年)11月に辞任を余儀なくされ、しばらくして段も失脚してしまい、中央から追われることになった。民国17年(1928年)、中国国民党北伐勝利と共に、梁も指名手配され、しばらくは大連に隠れ住んだ。民国19年(1931年)の満州事変後に、段が天津から上海に移ると、段が民国25年(1936年)に死去するまで、梁はこれに随従している。

維新政府から南京国民政府へ

日中戦争の本格勃発後の民国26年(1937年)末ごろから、梁鴻志は日本軍の誘いを受け、親日政府の組織を準備し始める。翌民国27年(1938年)3月28日、南京に中華民国維新政府が樹立され、梁は行政院院長兼交通部部長として、その首脳を務めた。同年9月、北平(北京)の中華民国臨時政府を率いる王克敏と梁との交渉を経て、臨時政府と維新政府の連合機関である中華民国政府連合委員会が北平に設立された。

民国28年(1939年)6月から、梁鴻志は汪兆銘(汪精衛)との合流交渉を開始した(9月から王克敏も参加)。当初、梁は汪の下風に立つことを望まず、なかなか交渉は成立しなかった。結局、日本の圧力もあって、梁は汪の下位となることを承諾している。民国29年(1940年)3月、南京国民政府は成立して、梁は監察院院長兼中央政治委員会委員に就任し、これと同時に維新政府は解散された。梁は、後に江蘇省長なども務めている。

日本敗北後の民国34年(1945年)10月19日、梁鴻志は漢奸として蘇州で逮捕され、上海へ移送される。民国35年(1946年)6月21日、江蘇高等法院第二分院で死刑判決を受け、同年11月9日、銃殺刑に処せられた。享年65。

参考文献




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月28日 (日) 14:39。











    
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