陸軍悪玉論


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陸軍悪玉論(りくぐんあくだまろん)とは、大日本帝国を崩壊に追いやった一連の責任は、大日本帝国陸軍にあるとする思想である。海軍善玉論と1セットで唱えられることが多い。

概要

陸軍悪玉論は、終戦直後から軍隊を評価するにあたって、日本人のなかでは一種の固定概念となっている。代表的なものとしては、「太平洋戦争の開戦にあたって、開戦を強硬に主張したのは陸軍であり、反対したのは海軍である。」というものがある。

全体的に、「大日本帝国陸軍は世界の情勢に疎く暗愚で、しかも暴走し、頑迷であったため多くの戦略的失敗を繰り返し、敗戦をもたらした。」「それに対して大日本帝国海軍は、世界の情勢に明るく、開明的で、連合国には勝てないという情勢を良く把握していたが、陸軍を説得することが出来ず、不承不承ながら戦争を遂行し、壊滅に追い込まれた。」というものが多い。日本陸軍は二・二六事件を起こし、満州事変から日中戦争にいたる中国大陸での戦線拡大を主導したという事実がある。昭和の軍部独裁政治は陸軍の軍閥によるものであり、満州事変は関東軍の暴走によって引き起こされた。これらは最終的には太平洋戦争の開戦原因の一つとなった。したがって陸軍悪玉論には一定の説得力がある。最後の陸軍大臣下村定大将は1945年11月28日の国会答弁において、自らそのような軍国主義に陥って暴走した陸軍の非を認めてこれを総括している。また、陸軍悪玉論は単なる善悪の問題だけでなく、最後まで英語教育を止めようとしなかった海軍と異なり、作戦立案一辺倒で一般教養を軽視した陸軍大学等の幹部教育制度上の欠点の表象するものと指摘する向きもある。

陸軍悪玉海軍善玉論は自衛隊にも色濃く受け継がれており、現在のところ陸上自衛隊は旧陸軍の伝統から距離を置いているが、一方の海上自衛隊は、日本海軍の伝統の担い手を自負している。


この両論の形成には、戦後の大衆史観を率いた作家である司馬遼太郎の影響も大きい。司馬は自著や発言で明治期からの海軍を概ね善しとする反面、昭和の陸軍を徹底してこき下ろしていた。これには司馬が学徒出陣により陸軍の戦車将校となった経験が元になっていると言われる。 また、海軍が報道対策を重視していたことも影響している。海軍は黒潮会などの記者クラブを通して新聞記者を厚遇し、伊藤正徳のような海軍に好意的な記者を育てていた。端的な例として竹槍事件で陸軍に都合の悪いことを書いた毎日新聞新名丈夫記者を陸軍が懲罰的に召集したのに対して、海軍側は何とかして記者を守ろうとし、最終的には海軍報道班員とすることで守りきったことから報道関係の世界でも「言論を弾圧した陸軍」と「言論の自由を守ろうとした海軍」という印象を強めることとなった。

日本陸軍悪玉論の分析

近年はさまざまな研究から、「巷間に流布された定型化された悪玉論・善玉論」が、必ずしも史実とは限らないとされてきた。例えば、陸軍が世界の情勢に疎く、連合国の戦力を過少に評価していたとされる論は、ノモンハン事件の再評価を中心に反駁されている。また、海軍善玉論についても、条約派艦隊派の対立があって必ずしも「善玉」一枚板ではなかったこと、五・一五事件による海軍士官の要人暗殺テロ、海軍が海上護衛を軽視していたことにまつわる様々な無為無策や悲劇があったこと、ミッドウェーにおける大敗が軍事情勢の決定的な変化をもたらしたこと、華南戦線やニューギニア戦線では海軍が陸軍を頼って無理に戦線を拡大したこと、太平洋戦線の縮小撤退が海軍部内の内部抗争に発展し、決断が致命的に遅れたこと、玉砕賛美は海軍の戦略的失敗(アッツ島沖海戦)が発端であるとなども明らかにされてきている。

また、戦争責任論とは別の観点から、海軍をより洗練されていると見なす考え方は、太平洋戦争以前から日本国民の間に存在していた。体制側から考えると、明治初期の士族反乱では、日本陸軍初の大将西郷隆盛が反乱軍の首魁となった。また逆に国民側から考えると、この士族の反乱や秩父事件などの内乱事件において、陸軍は武力鎮圧を実行し、国民に武器を向ける存在である。このためどのような立場からも、印象が良くなりにくい。また、日露戦争の結果、旅順要塞攻略で長期間にわたり、大損害を繰り返した陸軍と、日本海海戦で短期間に圧倒的な完全勝利を収めた海軍という好対照な印象が国民に浸透していったからである。これに加え、配属将校による軍事教練や、憲兵の存在など、国民が陸軍から直接抑圧を感じる機会が多かったため反発を受けやすい面もあった。

明治末期から昭和前期にかけて活躍した作家である永井荷風は、日記に「悪いことをするのは陸軍で、善いことをするのは海軍だ」「陸軍は格好が悪く、海軍は格好が良い」という「空気がある」と、記している。永井は日露戦争や大正軍縮、二・二六事件や太平洋戦争も体験しており、また自身耽美派の論者で、当然明治から昭和前半の風俗にも敏感だった。「格好」の問題ならば、「洗練されて物静かな海軍士官、粗雑で口うるさい陸軍士官」「砲塔と艦橋と双眼鏡小銃背嚢ゲートル」(陸海軍の軍服の差異については、軍服日本海軍の軍服及び日本陸軍の軍服参照。)「舶来紳士と土着武士」「ハイテクとローテク」「スマートネイビイーを標榜とする海軍と、戦陣訓によって立つ陸軍」「理数系の海軍と、体育会系の陸軍」など、様々な対比で見られていたことが推察できるTemplate:要出典?黒柳徹子は、戦時中、疎開先の青森の町役場に、二名の海軍士官が徴募説明のためにやってきた時のことを回想している。海軍の士官がやってくるというので、女友達と連れだって見に行ったこと、同じ事を考えた女性達で役場周辺がごった返していたこと、説明会場は中庭で行われ、それを見下ろす役場の建物の窓辺を女性達が占領、建物がぐらつかんばかりだったこと、などである。どうやら女性達にとっては、海軍士官は「格好」が良かったのは間違いなさそうである。

第二次世界大戦はどの戦域でも国家総力戦であり、日本対連合国との戦いでも同様だった。戦端が開かれれば、陸海両軍がよく連絡し、協力し、資源を融通しあうことは、勝利を目指す上で大前提である。しかし日本においては、敗戦まで、それが行われることは少なかった。なぜ日本軍が均衡のとれた統合運用を行えなかったといえば、明治初期に日本海軍は薩摩閥を中心に組織され、海軍主兵国家のイギリス海軍を手本とした。これに対し日本陸軍は長州閥を中心に組織され、大陸国のフランスドイツを手本としたため抜きがたい対抗意識が存在したからである。また陸軍がソ連を、海軍がアメリカをそれぞれ仮想敵として想定し、国防思想が統一されなかったのも大きな理由と言える。明治初期の草創期に、イギリス海軍に模して創設した海兵隊を廃止したことが、陸海軍ともに負担となったという説もある。

陸軍悪玉論への反論

しかし、満州事変から第二次世界大戦にかけて歩み寄りがほとんどなかったと言う点ではこの責任を陸軍のみに求めることは出来ず、海軍も同罪と言える。対米戦争に関しても、声を上げて反対するものは米内光政山本五十六井上成美らの3人を中心とした少数のみで、逆に対米開戦に迎合的な勢力の方が大きかった。

戦陣訓に関しては、陸軍が率先して広めていたものではないことは、先の司馬遼太郎自身が否定している。

また、司馬遼太郎の戦車に関する随筆から、「陸軍=精神論重視、技術軽視」という構図が成り立ってしまっている。しかし、実際には、無線機レーダーなど、海軍が米海軍に対して敗北する要因となったとされる点に関して言えば、陸軍のほうが海軍より進んでいたともされる。Template:要出典?また、「当時の日本の戦闘機爆撃機は、防弾が皆無に等しかった」とする「日本軍用機人命軽視論」が根強いが、これも海軍の軍用機に見られた傾向で、陸軍は一式戦闘機一〇〇式重爆撃機など、連合国ドイツのそれと比しても遜色のない防弾技術を開発していた。

このように、陸軍悪玉論は、戦前戦中の偏見に戦後の誤解が加わって生まれた、ステレオタイプであるという反論や、満州事変から日中戦争、そして敗戦に至るなかで陸軍がその主要な責任を帯びているとしても、当時の軍部を扇動した、右翼団体中国共産党朝日新聞などに影響を与えたゾルゲ機関の動き(砕氷船理論)など、様々な主体の動きを捨象して陸軍にすべてを押しつけるのは一種の隠れ蓑ではないかとの批判もある。もっとも、いずれの反論も「悪玉は陸軍だけではない」「海軍にも悪玉的要素があった」という観点からなされているため、「陸軍が悪玉である」こと自体は否定できていないのが実態といえよう。

関連項目



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年11月9日 (金) 08:28。












     
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