太政官布告(だじょうかんふこく)・太政官達(だじょうかんたっし)とは、ともに太政官によって公布された明治時代初期の法令の形式である。
太政官布告、太政官達は、いずれも、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式である。
布告と達の区別については、当初から厳密な区別はなかったが、1873年(明治6年)には、各官庁及び官員に対する訓令としての意味を持つものを「太政官達」、全国一般へ布告すべきものを「太政官布告」として区別することを定めた(明治6年太政官布告第254号)。しかし、実際の取扱いとしては、その後もそのような区別が厳密にされていたとは言い難く、一般国民を拘束する内容を持つものであっても太政官達の形式により定めたものもあったただし、1869年の版籍奉還以前に藩に対して出された指示は全て「太政官達」である。これは、幕藩体制においては、藩(藩主)が自己の所領内の版(土地)と籍(人民)を支配する唯一の公権力であり、公儀(江戸幕府→明治政府)は藩に対しては命令を出来てもそこに属する藩士(陪臣)・領民に対して直接命令できる権限が無かったからである。しかも、諸藩に命令を強制できるだけの直属の軍隊が無かった(戊辰戦争の官軍は全て諸藩連合軍である)ために、当時の太政官は緩やかな「太政官達」の形式で藩に要請して、その内容を藩が改めて自己の藩士・領民に対して命令を下す形式を取ったのである。版籍奉還によって明治政府は初めて諸藩の藩士・領民に対して法令を直接下せる権限を得たのである。。
また、明治初期の国家意思形成の不統一性の問題もあり、規制対象を同じくする法令が何度も公布されたり、法令の名称についても、「法」、「条例」、「規則」、「律」など様々であった。また、太政官名義ではなくその下部組織の名義で公布された法令もあったが、効力関係に上下はなかったとされている。
1885年(明治18年)12月22日、内閣制が発足したことに伴い、太政官制は廃止された。翌1886年(明治19年)2月26日には、法令の効力や形式を定式化するため、公文式(明治19年勅令第1号)が制定され、太政官布告・太政官達という法形式は廃止された。
公文式施行以前に公布された太政官布告・太政官達は、以後に成立した法令に反しない限り、その効力を保有する。
1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)には、内容が違憲でない限り有効なものとして扱う旨の明文の規定があった(76条1項)。したがって、太政官布告・達が対象が明治憲法下で法律事項とされる場合(天皇に立法権があるが、帝国議会の協賛を必要とする)には法律としての効力を有し、命令事項である場合は命令としての効力を有するものとされた。
1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法には、同憲法施行前の法令の効力に関する明文の規定はない。しかし、解釈上、明治憲法下で法律事項とされていたものは日本国憲法下でも法律としての効力を有するものとされている。これに対し、明治憲法下で命令事項とされていたものは、それが日本国憲法下でも命令事項である場合は引き続き命令としての効力を有するが、法律事項である場合は原則として1947年12月31日限りでその効力が打ち切られた(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律1条)。
ただ、前述した明治初期における国家意思形成の不統一性の問題や、規制対象を同じくする法令が何度も公布されたこともあり、布告・達が後の法令で明示的に廃止されなかった場合は、後に内容が矛盾する法令が制定されたとの解釈により効力を失ったのか否か疑義が生じたものもある。
2007年(平成19年)11月現在、現行法令としての効力を有すると解される太政官布告・太政官達は、法令データ提供システムには11件、日本法令索引にも11件が掲載されている。ただ、効力が存続しているか否か解釈が分かれるものもあるため、掲載されている布告・達には若干違いがある不用物品等払下ノトキ其管庁所属ノ官吏入札禁止ノ件(明治8年太政官達第152号)は、法令データ提供システムでは現行法令に挙げられているものの、日本法令索引では廃止法令に挙げられている。また、外国勲章佩用願規則(明治18年太政官布告第35号)は、日本法令索引では現行法令に挙げられているものの、法令データ提供システムでは挙げられていない。。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月18日 (日) 10:45。