真珠湾攻撃陰謀説


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真珠湾攻撃陰謀説(しんじゅわんこうげきいんぼうせつ)は日本時間の1941年12月8日、大日本帝国海軍真珠湾攻撃アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説である。この説は戦時中の日本でも唱えられていた。

背景と出版物

日本海軍による真珠湾(パールハーバー)攻撃はアメリカにとっても大事件であり、日本人が想像する以上の屈辱的事件であった。それは二度の原爆投下を経てこの太平洋戦争に完全勝利しても拭い切れないものだった。ヒトカップ湾からハワイのパールハーバーまで、31隻からなる艦隊で北太平洋を横断する大長征を行い、しかも戦艦駆逐艦が多数駐留しているところへ、奇襲に成功したことは、非常に稀なケースである。それだけに様々な憶測が生まれた。なかでも「ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていたにも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」とする真珠湾攻撃陰謀説が開戦後60年以上たっても、繰り返し論議される。しかもそれを日本とアメリカ双方で信じる多くの人々がおり、論争が起こっている。

歴史家のチャールズ・ピアードは戦争責任はルーズベルトにあり、『ルーズベルトが引き起こした戦争1941』を発表し、日本でも大鷹正次郎の『第二次大戦責任論』がある。ロバート・セオボルド『真珠湾の審判』、ジェームス・バーンズ『ルーズベルト』、ロベルタ・ウォールステッター『パール・ハーバー』が出版された。ジョン・トーランド『真珠湾攻撃』が大きな話題を呼び、ロバート・B・スティネットロバート・B・スティネット(Robert B. Stinnett)、1924年 -、カリフォルニア州オークランド出生。真珠湾攻撃時は高校在学中だった。翌1942年卒業と同時に海軍に入隊し、1946年まで現大統領のジョージ・W・ブッシュの元で太平洋大西洋の両洋の戦場に従軍。その軍功に対し青銅従軍星章10個並びに大統領感謝状を授与した。戦後オークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者を勤めたのち、「真珠湾の真実」執筆のため退社する。出版を重ね、英国、イタリアでも出版。BBCNHKテレビ朝日の太平洋戦争顧問でもある。『真珠湾の真実』が最近の書である。歴史家が真珠湾に関するもので比較的信頼されるものはゴードン・プランゲ『真珠湾は眠っていたか』である。20世紀末の「機密文書情報公開法」で事前察知を記した公式文書が色々明らかになっているが、これには諸説あり、評価が定まっていない。

ABCD包囲網

ABCD包囲網ラインとはA(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)による軍事的、経済的封鎖の包囲陣が作られ、そのためにやむを得ず戦争を起こさせられたという事件だが、ルーズベルトの陰謀説もこれの一部である。

  • 秦郁彦(『検証・真珠湾の真実』の編者)はABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。米政府は日本軍の南部仏印に進駐するをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油ゴムスズ屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國国策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかった。(検証・真珠湾の謎と真実)
  • 須藤眞志は大統領が承認していないので、米政府を縛る拘束力もなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。
  • ジョージ・モーゲンスターンジョージ・モーゲンスターン(George Morgenstern)、1906-1988年、米国・シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学専攻後、25年新聞界で働く。『シカゴトリビューン紙の外交問題と国際問題の論説委員だった。第二次世界大戦中は海兵隊大尉として海兵隊総司令部広報部付ニュース班長だった。海兵少佐で退官。は両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。

チャーチルとの密約はあったか

1941年8月9日からルーズベルトとウィンストン・チャーチルニューファンドランド島の沖合のアルジェンチアで会談を行った。チャーチルは何としてもアメリカをヨーロッパ戦争に参加させナチス・ドイツとの戦争に勝利しなければならなかったのである。アメリカは中立法(孤立主義モンロー主義)があり、戦争に巻き込まれないことを信条とし、それをルーズベルトは公約にしていたのだった。

当時アメリカはイギリスと同盟は組んでいなかった。アメリカの懸念は日本が南進したときにアメリカはどうすべきかと言うことだった。ルーズベルトは日本に警告文野村吉三郎大使に渡した覚書「日本政府が隣国諸国を武力、若しくは武力威嚇による軍事的支配の政策、もしくはプログラム遂行のため、さらに何らかの措置を執るについては合衆国政府は説きを移さず合衆国及び米国民の合法なる権利防衛のため、及び合衆国の安全保障を確保する為同政府が必要と認める一切の手段を講ずるを余儀なくせらるべき旨言明することを必要なりと思考す。」を発したが、これは陰謀説を唱える者の証拠とされる。

が、8月の時点では山本五十六考案の真珠湾攻撃のプランが出来ており、警告文ではアメリカ側のほうでは、そのようなことを予測しているように見えず、南方地域への日本の攻撃を想定していたものと考えられる。

ハル・ノートは最後通牒か

ハル・ノートは日本の教育では日本が50年以上かけて築き上げたアジアの占領地及び同盟関係もをすべて放棄せよ、と言う内容だが、このときにはもう南雲忠一中将率いる機動部隊択捉島ヒトカップ湾を出航、ハワイに向けて出撃していた。ハル・ノートをみた東郷外相は「目もくらむような衝撃に打たれた」『時代の一面』(原書房、1989年)と回顧しており、日本にとっては到底受け入れられない内容であった。開戦後日本はアメリカの最後通牒であったと発表したが、実際はもう出撃していてたしかに内容は挑発的だったがこれが戦争原因とはいえない。しかしハル・ノートは開戦派と和戦派の争いに決着をつけ、対米戦に一丸となって行くことを決意させた。

1941年11月26日、ホワイトハウスに朝九時に財務長官のモーゲンソーが尋ねているが、大統領はハル国務長官との長い電話だった。状況からハルが暫定協定案の放棄の許可を求めてきたものと思われるが、証拠はない。

ハルノートが戦争を誘発するかもしれないとする認識はハルにもルーズベルトにもあったと思われる。ルーズベルトは「先に日本に一発撃たせる方法はないか」と語ったそうである。この事からルーズベルトは日本と戦争をしたがっていることはまず明白であり、何らかの策を探っていたことが分かる。

キンメルとショートの(スケープゲート)名誉回復問題

1995年に米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルとハワイ駐留の陸軍司令長官ウォルター・ショートの遺族らが、名誉を回復せよという訴えを起こした。

1995年に国防次官のドーン委員長とする真珠湾調査委員会が50年ぶりに出来た。1999年に4月に共和党のウィリアム上院議員らによって二人の名誉回復を大統領に求める共同決議案が提出された。この問題はニューヨークタイムズスケープゲートでも取り上げられた。ただし、内容をみると「ワシントンD.C.の軍の司令官たちは日本がすぐにでも攻撃してくるかもしれないと示唆する諜報当局の報告を知っていた。 」と言う表現であり、場所も時間も特定されておらず、事前察知とは言いにくい。

内容は「その票決(2890億ドルの軍事支出議案への改正に関する52~47)は、1941年12月7日に攻撃されたハワイへの日本の衝撃的な忌々しい攻撃を、予想することができなかったことで非難された米軍の指揮官ハズバンド・E・キンメル海軍大将と、ウォルター・C・ショート陸軍中将を赦免することを目的とした。上院は、今日、1941年に真珠湾の爆破の結果として、職務怠慢で訴えられた2人の上級将校の名前を取り除くために、投票を行った。投票は、第二次大戦後、上院からベテランが退職して数が少なくなる中、感情的な議論の末行われた。」

議論の末、僅差で2回とも議決議案を通過したが、ビル・クリントンジョージ・W・ブッシュとも署名をせず、ロス議員も落選してしまったが、議会の公式見解では二人の名誉回復は成ったということになっている。

ポポフとゾルゲの二人のスパイ

ゾルゲ通報説(須藤眞志)

  • この疑惑の中に二人のスパイ活動によって、ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃を事前察知した、というものである。ゾルゲが日本で暗躍し、リヒャルト・ゾルゲが真珠湾攻撃の情報がソ連に伝えられ、スターリンによってルーズベルトに知らされたというもの(ゾルゲ通報説・ゾルゲ事件)。1951年5月17日に、ニューヨーク・「デイリーニュース」に、政治記者のジョン・オドンネルがゾルゲの告白文からモスクワからワシントンに真珠湾攻撃の情報が伝えられたという、暴露記事を載せたことによる。オドンネルは「確かに自分はみた。それが誰かによってファイルから削除された。」そのことからルーズベルト陰謀論は再燃した。ゾルゲは逮捕後、検察に対しかなり詳しい供述を行い、また彼の獄中の手記もあり、全て公表されているが、日本での資料を見る限り、ゾルゲが予め知ってそれをソ連に伝えたという告白文はない。
  • 戦後GHQによる押収された日本の特高警察の機密文書の中に、ゾルゲの告白文があり、それがワシントン陸軍省に保管されているという。それは「1941年10月に日本は60日以内に真珠湾攻撃を行うという計画を持っている、とモスクワに報告した」というもの。ゾルゲは10月8日に逮捕されているので、その報告は10月の何日のものかはっきりしない。不自然なことはオドンネル以外に誰もその資料を見たことがないということと、日本側に資料が存在しないことである。ゾルゲは確かに特高警察の取調べを受けているが、真珠湾攻撃を予め知っていたという調書は存在しない。ゾルゲは独ソ、日ソに対しての諜報活動を行い、ソ連に関してのドイツと日本の軍事行動について調べていた。ゾルゲはソ連人でありながら、ドイツナチス党に偽りの入党し、「フランクフルター・ツァイツング」の記者として入国し、ドイツ大使のオットーの信頼を得て、情報を収集していた。その情報は詳細かつ正確で六月のソ連侵攻も伝えていたほどである。日本については尾崎秀実(ほつみ)から情報を得て、それを元に分析してソ連に送っていた。米英については「日華事変と日独同盟政策に加え、日本が南方政策を打ち出したことにより、日本と米英の関係は悪化し、この両国は日本の敵となった。」ソ連に対しては「1941年の夏、または秋に日本がソ連攻撃に出ることはない、少なくとも翌春までにはない。」と『ゾルゲの獄中記』(山手書房新社)で書いている。ゾルゲは「尾崎が持っていた重要な情報源は近衛公爵を取り巻く、側近たちで、風見章西園寺公一(きんかず)、犬養健(たける)、後藤隆之助尾崎秀実らによる情報源を得ていた。」と述べている。近衛側近ととソ連へ報告していた彼らは、「昭和研究会」のメンバーでもあり、その情報の中身は軍事的、および政治的情報は少なかったといわれる。御前会議で南方作戦を執り米英との戦争も辞さずと日本がしたのはゾルゲにとって歓迎すべき情報であった。ゾルゲは尾崎秀実らの密告の情報の中身を分析し、10月から年末にかけて、日米開戦があるだろうとモスクワに報告した。ゾルゲの情報はかなり当っていたが、スターリンは彼の情報を余り信じていなかったようで、それをルーズベルトに知らせたという証拠は今のところない。日本の攻撃目標が真珠湾であることは知らせていない。
  • もうひとつの陰謀説に「アメリカからロシアに帰るソ連船が機動部隊と遭遇することを予め日本側に知らせていたのではないか」というもの。機動部隊の行動をソ連が知ったのはゾルゲの報告に違いないという推理である。(エドウィン・レートンの『太平洋戦争暗号作戦』)11月29日に「サンフランシスコを出て極東に向かったソ連船に遭遇する虞れがあるとの情報が着たが今日まで何もなかった。」(『戦史業書ハワイ作戦』)レートンは日本の機動部隊に遭遇するかもしれないことを、ソ連が予め知らせたのではないかと推理を打ち出した。だとすれば機動部隊の任務は真珠湾攻撃であることをスターリンは知っていたということになる。この船はサンフランシスコを出港したウリッキー号であったと特定している。アメリカ側から積み出された貴重な兵器を積んでいた。スターリンは日本と揉めて貴重な兵器を失いたくなかったのではないか。また米からもたらされた、41年6月のドイツの攻撃の情報の返礼として、真珠湾に向かう日本機動部隊の情報を教えたのではないだろうか、と言う説である。阿川弘之の『山本五十六』に「南雲艦隊は12月6日、第三国の行逢船を認めた。もし、どこかへ無電で機動部隊の動向を通報するようなら、海底へ消し去っていた。」と言う文があり、機動部隊は外国船と遭遇していた可能性がある。レートンはこの英訳を読んでいるふしがある。今のところ遭遇したとする記述はない。ゾルゲは攻撃目標が真珠湾であることを知らなかったようである。

ポポフ通報説

  • ドスコ・ポポフドスコ・ポポフ。ユーゴスラビア人でドイツのスパイであったが、イギリスに寝返って、今度はイギリスの諜報員として行動した。二重スパイMI6にいたイアン・フレミングが小説「007」のモデルとして描き、映画にもなったことで有名になった。「トライシクル・三輪車」という暗号名でプレイボーイで乱れた生活を送っていたようである。というイギリスの二重スパイがニューヨークのFBIにいき真珠湾攻撃を教えた、と言う説。ポポフの回顧録によれば、当時ポルトガルリスボンにあったドイツ情報部から情報収集とスパイ網を作るように指令されて米に渡るが、その中に日本からドイツへの「ハワイのオアフ島にある、軍事施設、真珠湾の米艦船の停泊状況、湾内の水深などを調べて報告するように」との依頼があった。ポポフは米につくなり、NYのFBIにこの真珠湾の件を話して、日本の真珠湾攻撃の可能性を強く主張した。FBIのフーバー長官は、二重スパイであり、プレイボーイであるこのポポフの話を真ともに聞こうとせず、そのままにした。
  • 問題はフーバーだがこの情報をルーズベルトに伝えたかどうかであるが、ポポフが提出したとする書類は国務省やナショナル・アーカイブスでも発見されていなかったが、1982年の「アメリカン・ヒストリカル・レビュー」にミシガン州立大学歴史学部のジョン・F・ブラッツェルとレスリー・B・ラウトの二人がFBIファイルのなかで発見したと発表した。ポポフは明らかにFBIに真珠湾の調査を依頼されていたことを報告した証拠がある、とした。秦郁彦氏の『検証・真珠湾の謎と真実』のなかのP130で「そのフーバーFBI長官は、一度だけ、真珠湾攻撃について証言したことがある。中略。真珠湾爆撃のその瞬間まで絶対的な警戒態勢をとるべしとの指示であった。11月26日に『太平洋の調査員』が入手した情報ということになっている」が、ここの内容はバンコクシンガポールクラ地峡であり、真珠湾とは書いていない。明らかに秦郁彦氏のミスで、これはポポフの情報とみて間違いないだろう。ヒトラーも日本の真珠湾攻撃の可能性をコメントしている。
  • 日本側では海軍士官吉川猛夫を、森村正という名前でスパイとして送り込んでいるので、必要な情報は送られてきたので、同じような調査をドイツに依頼するとは思えない。しかし、カールトン・ケッチャムという元空軍大佐が、フーバー長官がハワイに来たとき、日本の真珠湾攻撃について「ルーズベルトにたしかに通報した」と証言した。「極東の諜報員から日本がパールハーバーか、フィリピンのクラークフィールドを攻撃する予定である」と警告を受けたと話したとのことである。攻撃の危険を感じたフーバーはこのことを、キンメルやショートに知らせるべきだと進言したが、大統領は十分な回答を得なかった。

アメリカは暗号を解読していたか

スティネット

  • アメリカの暗号解読班は津暗号を知り尽くしていた。それは、アメリカが初めてこの暗号を破ったのは、1920年代のことだったからである。1941年頃日本はアメリカの暗号を出し抜こうと、この暗号に三ヶ月毎に細かい変更を加えていた。Jシリーズ暗号の三つの各々が1941年に使用されたが、一日も経たないうちに破られてしまった。アメリカの解読班の裏をかく事はできなかったのであるJ シリーズは元々皮肉を込めて暗号関係者の専門語で「直接法」と言われている方法で解読された。直接的と言われる所以は、日本外務省の急使の手荷物を盗むなどの手段が用いられたからである。たとえば福田急使がサンフランシスコの税関を通過しようとするとき、米海軍が税関吏を装って暗号書の入っている箱を開け暗号書の内容を急いで写真に撮って返し、通関を許可したりもしくは公然と買うこともあった桑港の諜報員は八幡丸の無線局長T・ハラダから日本商船暗号「辛」(海軍暗号書)を四万ドルで買った(『真珠湾の真実-欺瞞の日』)。。『真珠湾の真実-欺瞞の日』
  • 10月になると太平洋艦隊通信解析主任ホーマー・キスナー米軍暗号解読者が、“親鶏”(第三艦隊)、“子鶏”(侵攻部隊)の正体を知ることができた、と記しているロシュホートの「広範な航空作戦」については1941年22日の通信概要より、RG80,PHLO,BOX41,第二公文書館参照。著者のファイルにコピーがある。。日本の艦艇は基本的な通信機密保全を守ることを怠ったため、傍受局Hの暗号解読班は、第三艦隊の編成を知ることができた。米軍暗号解読者によると、第一艦隊の六隻のどの空母も連絡を取ることはなく、東南アジアではなく、常に太平洋を横断して当方ハワイに向かう行動に関連しているように思えた9月の早い時期にシアトルの第13海軍区(COM13)司令官チャールズ・フリーマン少将は「敵の潜水艦の脅威」について言及、北太平洋とアラスカの偵察機の飛行を実施して、「奇襲を予防する」許可を海軍作戦部長ハロルド・スターク大将に求めた。フリーマンに許可はなかった。RG187,COM13,Confidential通し番号121129,1941年9月17日付、シアトル国立公文書館参照。著者のファイルにコピーがある。。9月が終わり日本は中国から主要な艦船と航空部隊の大半を引き上げさせた。マッカラムの覚書に「戦争を企図している国は武力行為に出る前に、船舶が拿捕されたり、破壊されたりする地域から、商船と派遣中の海軍部隊を引き上げさせると思われる」ロシュホートのハワイ方面へ先行する日本の潜水艦の追跡証言は1941年1月24日、25日、26日の通信概要日報参照。第二公文館。とある。ワシントンは戦争の序曲と理解した。米情報部は商船を中心に無線を傍受していたのが分かる。日本商船にはJAPANからJで始まる記号を割り当てていた。龍田丸は「JFYC」であった。軍艦と海軍基地は仮名文字二字と数字一字だった。空母赤城は「8ユナ」だった。『真珠湾の真実-欺瞞の日』

秦郁彦(左近允 尚敏)

  • スティネットの『真珠湾の真実』に対して秦郁彦は反論を展開している。序章と後方の記述が違い過ぎ、原書ページで5ページと324ページでまるで正反対である。秦郁彦は1999年3月メリーランドカレッジパークの国立公文書館でJN-25bの解読作業に関する文書OP-20-Gを発見、1941年12月1日の時点ではJN-25bのほんのわずかな暗号を、解明できずただの一通も解読できなかった、という事実であり、JN-25bが解読されていたという主張を論破するものである、と主張している(『検証・真珠湾の謎と真実』)
  • 外務省の主暗号は解読されていた。連合軍は沿岸監視員、フィリピンゲリラ、市販の書籍、雑誌、新聞、または公刊資料などから、理論的に解析、敵の暗号書に近い物を作り上げるが、真珠湾攻撃前に日本外務省の主暗号を真珠湾攻撃前に解読した。(『検証・真珠湾の謎と真実』)
  • しかし、艦船の位置を特定する「方位測定」は敵電波の方位を測定することであるが、長距離で二箇所以上で同時に測定しなければならない。(以下ジャスパーホルムズの著書)当時ハワイの通信情報班ステーションHにいたジャスパーホルムズ(後大佐)1979年の著書の内容当時の方位測定機の多くは実際の方向と逆の方向(180度真反対)のいずれかは識別することが出来なかった。12月7日(攻撃当日)1100(午前11時)オアフ島アルアレイの方位測定機が357度方向に日本空母を測定したが、それまでのキンメル太平洋艦隊司令長官の情報はすべて南方にあるというものであった。(『検証・真珠湾の謎と真実』)
  • 日本外務省は九七式欧文印字機という暗号機(アメリカのコード名パープル、パープル暗号機)を使用していたが、アメリカはこれを複製することに成功していた。パープルや領事用の解読情報はマジックと呼ばれた。パープル電報の傍受はベインブリッジワシントン州)とサンフランシスコ傍受所で米軍は97%から98%解読できた。日本外務省はこの暗号機に自信をもち、解読されているとは知らなかった。(『検証・真珠湾の謎と真実』)

マッカラムの覚書

秦郁彦・マッカラム・メモは開戦の呼水になったのか

  • アーサー・マッカラム(マコーラム)アーサー・マッカラム少佐(Arthur N.McCollum)は海軍情報部極東班長。生年不詳。牧師の子として日本で生まれ育つ。日本での出生地など詳細不明。1921年アナポリス海軍士官学校卒業生で、知日派であり日本語に堪能だったことから、少中尉時代(大正末期)に日本語の語学将校として日本に駐在し、以降情報部の任務に携わる。1904年から1941年は海軍情報部(ONI)極東班長の職にある。皇太子時代の昭和天皇裕仁ダンスを教えたことがある。知日派ではあっても親日派と言うことはなく、むしろ反日傾向がある。(1970年米海軍協会のオーラル・ヒストリー事業の回想録)の1940年10月7日付のメモ。スティネットによると、彼が国立公文書館(ナショナル・アーカイブス)で1995年1月24日に発見したもので、直属上司の海軍情報部長(ウォルター・S・アンダーソン大佐)にあてたもので、「太平洋地域の情勢評価と米国がとるべき行動についての勧告」とタイトルがある。
  1. 太平洋、特にシンガポールなど、太平洋における英軍基地を利用するため英国と同盟ないし、協定を結ぶ。
  2. 蘭印にある基地の使用、補給物資の調達についてオランダ政府と協定を結ぶ。
  3. 中国蒋介石政権)にたいし、可能な限りの援助を与える。
  4. 航続能力の高い重巡洋艦の一個隊を極東フィリピン、シンガポールに派遣する。
  5. 潜水艦二個隊を極東に派遣する。
  6. 合衆国ハワイ艦隊の主力を引き続き駐留させる。
  7. 英国と共同し、日本に対し全面禁輸し、米国内の日本資産凍結を実施する。
  • これらの行動を実施すれば日本は対米戦に突入するだろうと結論しているが、これには米国が日本に対して絶対優位にあり、その気になれば日本を完膚なきまでに叩き潰せるだろうという、思い上がりがあった。
  • 改めて検証すればレヴェルの高い文書でもなく、「ルーズベルト政権によって裁可された『対日開戦促進計画』の文書」(”欺瞞の日”の中西評)でもない。しかも彼は中間管理職であり、上に作戦部次長、作戦部長、情報部長、戦争計画部長もいて、ルーズベルトまでこのメモがいくなど、普通では考えられないことである。スティネットがいうような確実な証拠はない。

無線封止は守られていたか

スティネット

  • スティネット ハワイ作戦に向かった機動部隊が、とくに司令長官である南雲忠一が60回も無線封止を破ったとスティネットは書いている。真珠湾攻撃に関与した日本海軍将校は第一、第五航空戦隊空母は完全な無線封じを行っていたと主張し、米側がキャッチした電報空母赤城やその他の軍艦になりすまして発信した偽電を傍受したものであるという。キンメル司令官の情報参謀エドウィン・レイトンは1985年に刊行した著書の中で「日本は偽電を打っていない」と証言し、「偽電はこれまでに発見されていないし、もし日本が偽電を実施していたらそれは馬鹿げたことで、見破られていた」と言っている(『真珠湾の真実-欺瞞の日』)。

須藤眞志

  • 須藤眞志は無線封止は守られていたと言っている。出発した機動部隊が途中で見つかれば全ては水泡に帰すから、天候上の理由から非常に危険な北方ルートを決断せねばならなかった。大遠征で航海中、給油をせねばならぬが、海上が荒れていれば不可能である。海軍では軍令部が中心となって、連合艦隊第一航空隊との間で通信計画が作成された。「電波戦闘管制」は最厳重な管制の場合で作戦上、緊急電報送信のほか、一切を電波発信禁止し、最高司令長官のみ命ずることが出来る。その60回も命令違反をしたというのは訳者の妹尾氏は「機動部隊は11月末から12月初めにかけ、最大風速35Mの台風にやられ、散り散りになった、艦隊を呼び集めるため、発光信号は頼りにならず、止む無く『禁断の電鍵』を叩いた」と証言している(『諸君』2002年6月号)。ところが逆の証言が多く、「北太平洋が思ったより穏やかで海霧が視程を低下してくれて助かり、洋上補給もうまくいった」と源田実は述べている(『真珠湾作戦回顧録』)。
  • 当時の海軍のモラルをを問題にし、無線封止が本当に守られていないならば南雲中将は愚将であるが、日本海軍軍人のモラルとは一体なんだったのか問わざるを得ない。かくのごとく、無線封止は、命をかけてまで守るほどの重要なことであり、命令違反ではないにせよ、部下が命をかけて守ろうとしていた無線封止を上官である南雲や長谷川が簡単に破ったとは到底信じられない。スティネットが発見したとしている傍受電波の記録の信憑性であるが、何ひとつとして公開されておらず、米公文書館に所蔵されているとのことであるが、スティネット以外、誰も目にしていない。
  • 戦後になって判明した事実がある。伊号二三潜水艦が一時行方不明12月7日午後0時10分(現地時間)、アメリカ海軍司令部に一つの暗号電報が入電。「ワレ、日本潜水艦ヲ撃沈セリ。」米軍艦が、公海上 ── アメリカの領海外において、日本海軍の潜水艦を攻撃、撃沈した事を報告する暗号電報。(米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類75(1945年6月7日)、みすず書房『現代史資料 35巻』) このように、米軍は日本よりも先に手をだし、潜水艦を撃沈している。

になり、その捜索のため、淵田美津雄が一度だけ電波を出したことがあると発言した(半藤一利『真珠湾の日』)。

  • (須藤眞志氏は無線封止は完全に守られていたといいながら、淵田が電波を出したことがあるとするなど、論理に矛盾が見られる。)

秦郁彦

  • 秦郁彦氏も無線封止は守られていたと断言する。スティネットは真珠湾直前の21日間(10月15日~12月6日)に米海軍通信諜報班(フィリピンのコレヒドール島のステーションC,ハワイのステーションH)がインターセプトした129通りの日本軍電波の内訳表を揚げている。そして無電封止の命令を無視し、「平均すれば一日当り3.8通」も電波を出し、おまけに「南雲長官がもっともおしゃべりだった」とコメントしているが、これが本当なら機動部隊はハワイまでの12日間、北太平洋をガラガラ蛇のような大音響を立てながら進んだことになり、米側が「手に取るように」機動部隊の動きを掴んでいた事になるが、トリックは単純なものだった。
  • スティネットは傍受 [interception] と「解読」[decoding] を取り違えている。スティネットはハワイ通信諜報班(ステーションH)のH・キスナーとキャビア班(ステーションC)のD・ホイットロックに何回もインタビューして結論を得たと証言を得ているが、二人の手記も文書資料もない。NSA(国家通信保安局)の解読史専門家F.D.パーカーが暗号専門誌『クリプトロジア』に書いた論文によると、戦後真珠湾攻撃関連の電報は188通であり、前期の129通との差はスティネットが見落とした可能性がある。ヒトカップ湾からの11月18日に関連する電報三通と、連合艦隊司令長官が指揮下の全艦隊へむけて発電した「ニイタカヤマノボレ」を除くと11月26日以降の電文はないので、機動部隊は無線を発信しながら、ハワイへはむかっていないといえる。しかも内容は解読されていないので、役には立っていない。


脚注

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参考文献

  • ジョージ・モーゲンスターン 著\渡邉明 訳『真珠湾 日米開戦の真相とルーズベルトの責任』(錦正社、1999年) ISBN 4-7646-0312-8
  • ロバート・B・スティネット 著\妹尾作太男 監訳\荒井稔・丸田知美 訳『真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々』(文藝春秋、2001年) ISBN 4-16-357530-8
  • ジョン・コールマン 著\太田龍 監訳『真珠湾 日本を騙した悪魔』(成甲書房、2002年) ISBN 4-88086-131-6
  • 秦郁彦 編『検証・真珠湾の謎と真実 ルーズベルトは知っていたか』(PHP研究所、2001年) ISBN 4-569-61586-4
  • 須藤真志『真珠湾〈奇襲〉論争 陰謀論・通告遅延・開戦外交』(講談社選書メチエ、2004年) ISBN 4-06-258306-2
  • 半藤一利『〈真珠湾〉の日』(文春文庫、2003年) ISBN 4-16-748312-2
  • 星亮一『淵田美津雄 真珠湾攻撃を成功させた名指揮官』(PHP文庫、2000年) ISBN 4-569-57391-6
  • 太平洋戦争研究会『太平洋戦争がよく分かる本 20ポイントで理解する』(PHP文庫、2002年) ISBN 4-569-57674-5

関連項目

関連リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月7日 (月) 03:38。












     
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