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(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京瀋陽)、後に北京

満洲族愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲語ダイチン・グルン(Daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清(ダーチン、ピン音 Dàqīng)と号した。

国号について

諸説ある。 漢民族女真族によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「」と、『周礼』で(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「」を組み合わせ、中原進出の意味を込めたというもの五行相克では、

  • 木徳→土徳→水徳→火徳→金徳→(木徳に戻る)

「水克火(水は火に克つ)」となる。。

また、「しん」という読み方が、北京官話と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などにみられる程度である。

ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。

歴史

清の勃興

17世紀初頭にの支配下で、満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金が清の前身である。その子のホンタイジ(太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこでの末裔であるモンゴルリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽(後に作られた偽物である可能性が高いが)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた。

清の中国支配

順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、とくに鄭成功台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し、明の制度を取り入れて国制を整備した。

清の最盛期

順治帝に続く、康熙帝雍正帝乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。

康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルチベットを服属させた。

また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。

こうして少数の満洲族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満洲族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。

中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と呼ばれる凄惨な処刑を清が滅亡する20世紀初頭まで行い、その刑で処刑された人肉は一般家庭などで薬として食されていた。(この凌遅刑を撮影した写真が現存している)。

しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見えはじめた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣和珅は、清朝で最も堕落した官僚の一人であり、乾隆帝の崩御後、新政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた。

ヨーロッパ列強の進出と内乱

19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、時代遅れの政府、官僚組織、経済では対処しきれない国内問題と自然災害に直面したということである。

19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。それ以前は、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想により、中国の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で近隣諸国を統率するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が世界に進出し、産業革命と海運業により経済を発展させていった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州貿易を推進した。

1793年、イギリスは、広州一港に限られていた貿易の改善を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は最新の工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、清はヨーロッパの工業製品は必要とせず、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。これはイギリス政府の気分を深く害することとなった。

この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人はでの支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、これらの代償として中国に輸出する商品を欠いていたのである。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培したアヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止していたが、アヘン貿易は次第に拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。このため、1839年林則徐欽差大臣に任命してアヘン貿易の取り締まりを強化した。

林則徐はイギリス商人らのアヘンを没収して処分する強行策を取ったが、かねて自由貿易を望んでいたイギリス政府はこの機会に武力で開港させる決意を固めて、翌1840年アヘン戦争を起こした。強力な近代兵器をもつイギリス軍に大敗した清は、1842年イギリスと南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年フランス黄埔条約を、アメリカ望厦条約を締結した)。

対中国貿易はこの後も伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲がイギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年アロー戦争を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年に公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金・アヘンの輸入公認などを認めさせる天津条約を締結した。その後北京を制圧し、天津ら十一港の開港・イギリスに対し九竜半島の割譲・中国人の海外への渡航許可を清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これにより外国商品の中国流入が進んだ。また、このときロシアに沿海州を割譲した。

この戦争と同時期には、国内でもキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国による太平天国の乱1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム回族)によるパンゼーの乱1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)などが起こり、清の支配は危機に瀕した。太平天国の乱の末、即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が力を得て、王朝の根幹の制度を維持したまま欧州の技術を導入する洋務運動を開始するに至った。

1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

半植民地化・滅亡

1884年インドシナ半島植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を主張して清仏戦争(- 1885年)を起こすが、これによって冊封国ベトナムを失い、アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年朝鮮東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が出兵すると、朝鮮進出を伺う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを確認させられ、朝鮮に対する影響力も失った。

「眠れる獅子」と畏れられた清が、同じアジア人国家の日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴルトルキスタンロシア長江流域をイギリス山東省ドイツ福建省日本、華南をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは香港九龍半島威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島膠州湾租借地)、ロシアが旅順大連租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点とした。アメリカ南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、これらの勢力圏は全て平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発した。

これに対し康有為梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃された。

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を襲いつつ北京に進出した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結んで屈服した。こうして中国の半植民地化はますます進んだ。

20世紀に入ると、日露戦争1904年 - 1905年)の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、清は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清打倒活動を広げていた。1911年武昌での軍乱をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。

1912年1月1日南京中華民国が樹立した。北京の最後の皇帝溥儀(宣統帝)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。

政治

官制

清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。

それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。

その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。

中央には軍機処の他に六部内務府(宮廷諸事)・宗人府(皇族・宗族の事務)・理藩院(藩部の統括。藩部については後述)・都察院(官僚の監察)・通政使司(上奏分の検閲)・大理寺(最高裁判所)がある。

地方は皇帝直属である藩部と満洲族の故地である満洲とに分かれている。

藩部はホンタイジが最初に内モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院と改名し、外モンゴル・新疆チベット青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。

省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省安徽省山西省山東省河南省陝西省甘粛省浙江省江西省湖北省湖南省四川省福建省広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省貴州省の18である。省の下に府・州・県がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府・知州・知県と呼ぶ。省の長官は巡撫と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。

満洲族の故地である満洲地方については省は置かずに、それぞれ黒竜江将軍(黒竜江省)・吉林将軍(吉林省)・盛京将軍(遼寧省)らに軍政を行わせて満洲族の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢民族の移住を禁止して、満洲族が漢民族に同化してしまわないようにした。

満漢偶数官制

清の政治は圧倒的多数である漢民族を少数派である満洲族がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。中央の諸官のポストをそれぞれ満洲族・漢民族が同数になるように配置していく制度である。

清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲族だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。

兵制

兵制は満洲族の軍制である八旗制度を採用していた。それを補完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは八旗の項を参照。しかし乾隆以降は長い平和に八旗は堕落し、物の役には立たなくなっていた。

その後白蓮教徒の乱苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は緑営に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。

その後の太平天国の乱に際しては湘軍淮軍といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では曽国藩・李鴻章といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を初めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。

経済

清の社会は基本的に明を引き継いでおり明清帝国と呼ばれる事もある。

明代後期から出現した郷紳層による地方支配、外国産のの流通による経済の発達、東アジア交易網の隆盛などが明後期から清前期の特徴として挙げられる。

農業の発展と人口爆発

北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、康熙帝期の1700年に1億5千万、乾隆帝期の1770年から80年にかけて2億8千万、19世紀前半に4億を突破した(数字は全て推定)。

この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陸原産の作物トウモロコシサツマイモ落花生などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢民族が進出できるようになった。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢民族の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まりきらず、明代から出現していた華人が激増する事になる。

これらの漢民族の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル族・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲族の保護の意味から漢民族の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢民族の農地が広がることになる。

税制

清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税(人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。

商業

明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物綿織物に加えての加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。

そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接にかかわり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。

文化

順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な文人でもある。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために文字の獄と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっている。

上記三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味があった。

思想

厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれた。

これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている(と考えられる)朱子学陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが代のものである。

考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う『古文尚書』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。

また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では『二十二史箚記』の著者趙翼が有名である。

しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。

文学

清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必ずしも必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛びぬけた天才・名作は無い。

一方、明代から引き継いで小説戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。

現代中国で普通話と呼ばれる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と東北地方の語彙が混り合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。

美術

絵画の分野ではイエズス会ジュゼッペ・カスティリオーネによってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。

陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。

瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。

国際関係

前期

清朝はすでに満洲時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球マカオポルトガル人、ベトナム(安南)が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などの交易を許した。特にタイアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、中国商船の長崎貿易は許されていた。欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。

北辺ではシベリアに進出したロシア満州北部に迫り、ネルチンスク条約キャフタ条約によって中露国境が定められた。

後期

19世紀に入ると産業革命が進む欧米と中国との力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が開始され、後発のロシアや日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争アロー号戦争(第2次アヘン戦争)、清仏戦争(ベトナム宗主権を巡る)、日清戦争(朝鮮宗主権を巡る)、義和団の乱が起こり、清朝はイギリスに香港島を割譲したのを始め九龍・新界租借地、威海衛租借地、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権、ドイツに膠州湾租借地、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲した。また上海にも共同租界やフランス租界が設置され、列強の中国侵略の足場となった。

清の皇帝

清の皇帝の姓

皇帝の姓を愛新覚羅(あいしんかくら)という。本来の満洲語ではAisin gioro(アイシン・ギョロ)と発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。

清の元号

清は、一世一元の制踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。

清朝皇帝
廟号 諡号 姓名 在位時期 年号 陵墓 備考
太祖 承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝 (追尊) 愛新覚羅努爾哈赤
アイシンギョロ・ヌルハチ
1616年-1626年 天命 福陵
太宗 応天興国弘徳彰武寛温仁聖睿孝敬敏昭定隆道顕功文皇帝 愛新覚羅皇太極
アイシンギョロ・ホンタイジ
1627年-1643年 天聡大清皇帝に即位し崇徳と改元。
崇徳
昭陵 ヌルハチの子
世祖 体天隆運定統建極英睿欽文顕武大徳弘功至仁純孝章皇帝 愛新覚羅福臨 1644年-1661年 順治 孝陵 ホンタイジの子
聖祖 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝 愛新覚羅玄燁 1662年-1722年 康熙 景陵 順治帝の子
世宗 敬天昌運建中表正文武英明寛仁信毅睿聖大孝至誠憲皇帝 愛新覚羅胤禛 1723年-1735年 雍正 泰陵 康熙帝の子
高宗 法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝 愛新覚羅弘暦 1736年-1795年 乾隆 裕陵 雍正帝の子
仁宗 受天興運敷化綏猷崇文経武孝恭勤倹端敏英哲睿皇帝 愛新覚羅顒琰 1796年-1820年 嘉慶 昌陵 乾隆帝の子
宣宗 效天符運立中体正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏寛定成皇帝 愛新覚羅旻寧 1821年-1850年 道光 慕陵 嘉慶帝の子
文宗 協天翊運執中垂謨懋徳振武聖孝渊恭端仁寛敏顕皇帝 愛新覚羅奕詝 1851年-1861年 咸豊 定陵 道光帝の子
穆宗 継天開運受中居正保大定功聖智誠孝信敏恭寛毅皇帝 愛新覚羅載淳 1862年-1874年 (祺祥)一旦「祺祥」と公布されたが、辛酉政変のため改元前に同治と変更された。
同治
恵陵 咸豊帝の子
徳宗 同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寛勤景皇帝 愛新覚羅載湉 1875年-1908年 光緒 崇陵 道光帝の孫
同治帝の従弟
愛新覚羅溥儀廟号はなく、諡号遜帝末皇帝(末帝)などと呼んでいたが、2004年、清皇室の子孫たちが協議して廟号を恭宗とし、諡号を愍皇帝と追尊した。しかし、公式に認められたものではない。また1995年、遺灰を八宝山革命公墓から清西陵付近の華龍皇家陵園に新たに作った献陵に移している。 1908年-1912年 宣統1924年の優待条件修正案公布まで紫禁城内でのみ使用。 献陵 道光帝の曾孫
光緒帝の甥

脚注

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関連項目

参考文献

  • 増井経夫『大清帝国』(講談社学術文庫、2002年)ISBN 4061595261 - 『中国の歴史 第7巻 清帝国』(講談社、1974年)を改題、文庫化

外部リンク

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月8日 (月) 09:22。。











       

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