【猛る獅子と放課後の天使たち 『起』その1】


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「地上におちた天使は翼を失くしました。もう二度とあの空の向こうに帰ることは叶いません。それでも天使は後悔しませんでした。父なる神に見放されても、あの少女に会うためならばと彼は決意していました。人間たちの住む世界の重力に押しつぶされそうになりながらも天使は少女のもとへと這いずっていきます。天使であった彼にとって人間界の食べ物や空気はとても汚れているもので、誰よりも美しかった彼の心も体も穢していきます。やがて彼は天使と呼べるものではなくなってしまいました」
 ―――見夏樹U子〈緑の天使〉より

  ※※※※※






『起』


 私は考えます。
 恋ってなんなんでしょう。
 その答えに達した人間がこの世界にどれだけいるのかわかりません。いえ、理解できないからこそ恋と呼べるものなのかもしれません。恐らく恋に恋する少女たち自身にもその答えを知る者はいないのでしょう。
 恋は人を幸福にすると同時に、破滅へと導きます。そう、それは山の頂上から堕ちていくのと同じです。転がる石を止めることは誰にもできません。しかし、それでも人は恋という山に登らずにはいられないのです。
 それは切なく悲しい、しかしとても愛おしい人間の業です。
「どうしたの牧村《まきむら》さん。ぼーっとして」
 自分の名前を呼ばれ私ははっと現実へと戻ります。
 牧村|優子《ゆうこ》。それが私の名前です。とても平凡な名前で恐縮ですが、どうかよろしくお願いします。
 どうも私はすぐに空想に浸ってしまう癖があるようで、よく授業中に先生に当てられて怒られることがよくあります。困ったものですね、本当。
 私の顔を覗き込んで話しかけてきたのはクラスメイトの藤森《ふじもり》飛鳥《あすか》くんでした。長い前髪が垂れ下がっている女の子のような可愛らしい顔で、ぼんやりとする私を心配するように見つめています。
「ごめんね藤森くん。ちょっと考えごとしてて。えへへ」
「もう、僕の話聞いてなかったの?」
 不満そうに彼は目の前のクリームソーダをストローでずずずと飲んでいました。時たま息を吹き入れソーダをぶくぶくと泡立たせています。行儀が悪いです。でもなんだかその様子は子供のようで、私は思わずくすりと笑ってしまいます。
 私たちは今、商店街にあるとある喫茶店のテーブルについていました。
 チャーリー・パーカーの曲が流れる客の少ない喫茶店。店には綺麗なウェイトレスさんと、カウンターの奥で無愛想に新聞を広げているマスターがいます。時折騒がしくなる店内ですが、こうして普段はとても過ごしやすいところで、隠れた名店といったところでしょう。私たちのほかには背の高い男の子と、小学生みたいな女の子がナポリタンを食べていました。
 私は頼んだチョコレートパフェを少しずつ口に含みながら藤森くんの顔を見つめます。窓辺の席に座っているため夕暮れの日差しが彼の顔を赤く照らしています。恐らく私の顔も同じように赤くなっているのでしょう。ですが私の頬が紅潮しているのを彼に悟られないので都合がいいです。
 藤森くんはテーブルにノートと参考書を広げて頭を抱えていました。ミミズの這ったような汚い字で数字が書かれたりしています。どうやら数学のお勉強をしているようです。
「やばいよ牧村さ~ん。このままじゃまた赤点だよぉ」
 半泣き状態で藤森くんは私に泣きついてきました。残念なことに彼はあまり勉強が得意ではないようで、こうしていつも試験間際に私に教えを乞いにくるのです。このチョコレートパフェは藤森くんのおごりで、報酬のつもりなのでしょう。私もそんなに成績がいい方ではないので自分だけで手いっぱいなのですが、藤森くんにこうして頼まれると私は断ることができません。どうにも彼は放っておけないのです。
「もう、仕方ないな藤森くんは。じゃあどこからわかんないのか確認しようね」
「うん、ありがとう」
 私がそう言うと、彼は寒いのか鼻水をすすりながら満面の笑顔を浮かべています。改めて藤森くんのノートを見ると、まったく意味のわからない方程式ばかり並んでいます。全然理解していないようです。これは本当にまずいのでは? 下手すると留年の可能性もあります。
「……藤森くん。このままじゃ進学なんて言ってる場合じゃないよ」
「……だよね」
「どうするの? いくら双葉学園付属の大学があるっていってもさすがにこれじゃ無理だよ」
「べ、勉強は頑張ってするよ。でも、うう……」
 彼はがっくりと肩を落として項垂れていました。藤森くんが勉強に集中できない理由を私は知っています。ですが、それとこれとは別です。学園の生徒で、戦闘や任務に出ている人は決して少なくはありません。そんな彼らもきちんと学業との両立を図っているのだから、それを言い訳にはできません。ただ、彼らと違って藤森くんは学園側からの恩恵を受けられることをしていないので、仕方ないといえば仕方ありませんが。いえ、自業自得と言う方が正しいでしょう。
「もう、とにかく私がつきっきりで教えてあげるから頑張ろうね」
「ありがとう牧村さん」
 つきっきり。お泊りして勉強会。そんなことを想像すると、私も少しドキドキしてしまいます。しかし若い男女が二人きりで部屋で勉強しても逆に集中できないような気がしますね。まあ、藤森くんは何かをするような度胸があるようには見えないので、悲しいかなある意味安心です。
「ねえ牧村さん。牧村さんも双葉大学に進学するんだよね?」
「え? うん。とりあえず今の時代大学くらい出てたほうがいいもんね。それに、私もまだこの学園にいたいもの」
 それは偽らざる私の本音でした。色々と辛い思い出がありますが、それでも私にとってここは第二の故郷です。こうしていろんな人に出会えたことをとても忘れることはできません。まだまだこの学園で、藤森くんと一緒にいたいと思います。
 ですから肝心の藤森くんがこれじゃあ全然駄目なのです。私だけ大学に入ってもつまらないですから。藤森くんにはこれからみっちり勉強を頑張ってもらいます。
「でも大学卒業した後ってのもまた考えなきゃいけないんだよね。僕は特に夢もないし、何したらいいのかまったくわからないよ」
 うーんと唸って藤森くんは頭をぼりぼりと掻いています。でも彼のように特に将来の展望がない人は案外多いのではないのでしょうか。大学に入ってから考えても遅くはないので恥じることではないでしょう。
 ですが私は藤森くんにはまだ言っていませんが、将来の夢があります。
 それを叶えるのは難しいことですが、私にとってはとても大事な夢なので諦めるという選択肢はありません。そのためにももっともっと勉強しなくてはならないでしょう。そのための努力はいやではありません。
「さあ、藤森くん。今度はこの問題解いてみようよ」
「うう……。やってみるよ……」
 そうして私は藤森くんに勉強を教えてあげます。人にやり方を説明すると、自然と自分の勉強にもなる事がわかりました。これは一石二鳥かもしれません。
「あ、ごめんちょっとおトイレ行ってくる」
 藤森くんは立ち上がってぱたぱたと店内のトイレへと向かって行きました。ふうっと私も一息ついてパフェを頬張ります。すると、しばらくして彼はトイレの扉を勢いよく開けて出てきました。
「ぶほ!」
 私は思わず驚きのあまりそんな下品な声を上げて口の中のパフェを噴きだしてしまいます。
 なんと彼は白塗りのメイクをばっちり決め、頭にはピエロの帽子、そして身体には真っ黒なマントを纏っていました。あまりにアホらしい格好なのですが、彼の表情は真剣そのものです。それが逆に滑稽に見えてしまいます。
「見えたぞ、世界の歪みが!」
 そう叫んでててててと走って勢いよく喫茶店のドアを開いてどこかへと行ってしまいました。お店にいたウェイトレスさんもポカーンとそれを見送り、カウンターにいた背の高い男の子はお腹を押さえながら大笑いしていました。
 私はハンカチでなんとか汚れた自分の口を拭いて、こぼしたパフェも拭い去ります。
 まったく、藤森くんには困ったものです。また勉強もできずにどこかに飛んで行ってしまいました。いつものこととはいえ、デート中にいつもこうして置き去りにされる私のことも考えてほしいですね、本当。
 ……そういえばここは藤森くんの奢りになってたはずなのに、支払いはどうするんでしょうか。もしかして彼の飲んだクリームソーダも払わなければならないのでしょうか。私は、はうっと溜息をつくしかありません。仕方のない人ですね本当。
 私は今からどうしようかと考え、自分の鞄からノートを取り出しました。
 なんでもないただの大学ノート。でも、そこには私の夢が詰まっていました。
 ゆっくりとページをめくると、そこには『緑の天使』という文字が書かれています。いえ、それを書いたのは私です。
 私の夢は児童文学作家になることです。
 笑われてしまいそうで誰にも言っていない私の夢。私は昔から空想が好きで、こうしてポエムや小説を趣味として書いていました。
 でも、今私はそれをいろんな人たちに読んでもらいたいと思うようになりました。
 私は子供たちに伝えたいのです。
 世界は決して優しいものではない、でも、だからこそ人は人に優しくするべきなのだと。そうすればきっと世界は素晴らしいものになるのではないのかと。
 そんなことは綺麗ごとで、世界はそんなに上手く回らないということは自分はよく知っています。
 でも、だからこそ、この想いを書きとめずにはいられないのです。
 私はシャープペンシルをノートの上に走らせ、物語を綴っていきます。
 私のようなただの子供が何を書いても説得力なんてないでしょう。それでも私は書きたいのです。書かずにはいられないのです。
 しかしふと妙な視線を感じ、私がその方向へと目を向けると、一人の女の子がひとつ前のテーブルからこちらを見て微笑んでいました。
 その女の子はなんだか人形のようにはりついた笑顔で、どこか不自然さを感じさせるものでした。でもその透き通るように色素の薄い亜麻色のロングヘアはとても綺麗で、濁りのない宝石のような黒い瞳は私をじっと見つめています。こちらも目を離せなくなりそうなほど美しいもので、ずっと見ていると吸い込まれるのではと錯覚してしまいます。
 私がその女の子に見惚れていると、彼女は立ち上がって何を思ったのか私のテーブルにやってきて、先ほどまで藤森くんが座っていた向かいの席へと腰をおろしました。
「な、なんですか?」
「そんな驚かないでください牧村さん」
 私は彼女が自分の名前を呼んだのでびくりと肩を震わせてしまいます。私は彼女を見たことなどありません。
「あなたは……?」
「ひどいですね牧村さん。私はあなたのクラスメイトの柏木《かしわぎ》蛍《ほたる》ですよ。忘れてしまったのかしら?」
 柏木さん……? 
 私はぐるぐると廻る頭を整理して、必死に思い出そうとします。
 ああ、そうです。思い出しました。
 彼女は同じ3年Y組の生徒でした。
 彼女は綺麗で神秘的で、いつもクラスのみんなに囲われているような、クラスの中心事物でした。
 なぜ私はそんな柏木さんのことを忘れてしまっていたのでしょうか。
 まるで記憶がごっそりと抜け落ちたかのように思い出せませんでした。ですが、今ははっきりと柏木さんのことを思い出せます。
 そうです、|柏木さんは私の大親友なのです《・・・・・・・・・・・・・・》。ふっと柏木さんは私の手に自分の手を重ね、視線をテーブルの上のノートへと向けていました。
「ねえ牧村さん。これはあなたが書いたの?」
「う、うん。まだ全然下手だけど……」
 私はそのノートに書かれた小説を柏木さんに読まれ、少し恥ずかしさを感じました。まるで裸を見られているのと同じです。
「いいえ、とても素晴らしいわ。あなたの綺麗な心がとてもよく伝わってくるようですよ」
 柏木さんは私の書いたものをそう評し、私の手をぎゅっと握ってきます。その手はとても冷たくてなんだかとても繊細で、握り返したら壊れてしまいそうです。
 今まで自分が書いたものを人に読まれたことなんてなくて、こうして褒められたこともありませんでした。そんな私にとって柏木さんのその言葉はとても嬉しく、なんだか身体が火照ってきてしまいます。
「ねえ牧村さん。少しお話したいのだけれど、いいかしら」
 そんな柏木さんは私ににっこりと微笑んでそう言いました。綺麗ながらもどこか不器用なその笑顔は、天使とも悪魔ともとれるものでした。



  ◇ ◇ ◇



 ぼくはお姉ちゃんが好きだ。お姉ちゃんが大好きだ。
 お姉ちゃんの長くてふわふわした栗色の髪が好きだ。その一本一本をぼくの胃袋に収めたい。お姉ちゃんのガラス玉のような綺麗な瞳が好きだ。眼球を取り出して舐めたいとすら思う。お姉ちゃんのプリンのように柔らかな唇が好きだ。切り取って部屋の壁に飾りたいほどだ。お姉ちゃんの細くて胸の大きい身体が好きだ。全身の骨が砕けるまで抱きしめたい。
 ああ、お姉ちゃんってなんて可愛くて綺麗で美しいんだろう。
 まるで天使、いや、神よりも厳かでこの世の何よりも崇高な存在。ぼくみたいな下種で汚らしい存在が神々しい輝きを放つお姉ちゃんの横に並んでいることは罪だろう。だが、それでもぼくはお姉ちゃんの隣にいたいのだ。たとえそれが世界の法則に逆らうものだとしても。
「……どうしましたか凛人《りんど》くん。なんだか呼吸が荒いですよ」
 ぼくのねっとりとした視線に気づいたのか、お姉ちゃんは後ろを歩くぼくの方を振り向く。その振り返る姿はとても美しく、まるで絵画のよう。そんな絵ならぼくは何憶つんででも買い取るだろう。
 紅葉賀《もみじのが》昴《すばる》。それがお姉ちゃんの名前。高慢で愚鈍な父がつけた名前だが、そんな美しい名前をつけたことだけは評価してやる。だがぼくの凛人という名前は少しどうかと思う。やはり父には早く死んでほしい。
 ぼくの双子のお姉ちゃん。だけど双子と言っても二卵生で、ぼくとは似ても似つかないほどに完璧な人間だ。ああ、こんなお姉ちゃんと同時に生まれたことはぼくにとって最大の幸福だろう。
「なんでもないよお姉ちゃん。さあ、早く行こう。日が暮れないうちに」
「…………そうですね」
 そう言いながら再び歩き始めるが、お姉ちゃんの歩調はカメよりも遅く、ぼくはその歩調に合わせないとすぐに追い越してしまう。だがお姉ちゃんの前を歩くなんて行為はぼくにはとてもできない。だからぼくはお姉ちゃんの後ろをついていくのだ。それは子供のころから変わらない。ずっと変わらない。
 ぼくたちは今、学園都市部の商店街を歩いている。
 こんなしょぼくて小さな店が立ち並ぶところを、紅葉賀家の人間が歩くなんて本来はありえない。だがこの学園に入学した以上、生活のためには仕方がない。バイクや車が走りまわり、危険と排気ガスがお姉ちゃんを汚す。それはとても耐えられたことではないが、父さんの恩恵を受けて優雅な暮らしをするなんて考えただけでもぞっとする。あのこの世で一番汚らわしい生き物である父の施しでぼくとお姉ちゃんが生きていくなんてそんなことは絶対に許せない。
 ぼくがそんなことを考えながら歩いていると、突然お姉ちゃんは足をぴたりと止めた。思わずお姉ちゃんの華奢な背中にぶつかりそうになってしまう。
「どうしたのお姉ちゃん?」
 ぼくがそう尋ねると、一拍(どころか十秒くらいだが)置いて、
「………………疲れました」
 そう溜め息をついて立ちつくしてしまった。疲れたって、まだ十分ほどしか歩いていないのだが、それでもお姉ちゃんにとっては山登りのように辛いことなのだろう。しかしそれはいつものことだし、そんなお姉ちゃんのことをぼくは大好きなのでどこか休憩できるところを探す。地べたに座るわけにもいかないからぼくは近くにあった喫茶店を指さす。
「お姉ちゃん、ここで少し休もうか。何か甘いものを頼もう」
 その喫茶店はいささか古臭く、商店街の中でも浮いていたが、それでもこのままずっと立ちつくしているよりはマシだろう。
 お姉ちゃんはこくりと頷き、ぼくもその喫茶店の扉を開けようと手を伸ばす。
「見えたぞ、世界の歪みが!」
 しかしそんな叫び声が店内から響いたと思うと、扉が突然開け放たれ、中から凄まじく滑稽な格好をした奴が飛び出してきた。
「うわあ!」
 ぼくは思わずのけぞってしまう。中から出てきたそいつは、なんとピエロの格好をしていたのだ。しかしピエロといってもカラフルな服ではなく、不吉な感じのする黒いマントを着こんでいた。
 なんだなんだ、店のイベントのコスプレ? 異常者? 変態? そんな考えが頭によぎっている間に、そのピエロは商店街を走り去って行ってしまった。
「…………ピエロ、ですよね」
「そうだねお姉ちゃん。あれは一体なんだったんだろ? いくら変な奴が多い学園だからってあんな珍妙な格好の奴はみたことないよ」
 お姉ちゃんも珍しく驚きの表情になっていた。普段ずっと寝むそうな顔しかしていないのである意味貴重だ。カメラを持ってくるべきだったと後悔する。
「…………凛人さん。早くお店へ入りましょう。わたくしもう倒れそうですわ」
 ぼくはそう言われ驚く。お姉ちゃんに急かされることなんてほとんどないからだ。しかし、お姉ちゃんの視線は喫茶店のメニューのサンプルに向いていた。そこに置いてあるチョコレートパフェを凝視している。どうやらお姉ちゃんはあれが食べたくて仕方がないようだ。まったく、甘いものばかり食べるからすぐ虫歯になっちゃうんだよ。でも生クリームを頬につけているお姉ちゃんを想像するだけでぼくは軽く勃起してしまう。ああたまらないそれは早く見たい。ぼくは扉を開けてお姉ちゃんをエスコートする。カランカランと小気味いい音を鳴らして、ぼくたちは喫茶店の中へと入って行く。
 案外中はいい雰囲気で、ジャズが流れていて少しお洒落だ。これはなんだっけ? チャーリー・パーカー? よくわからないが穴場と言った感じのお店だ。お姉ちゃんの足元にも及ばないとはいえ、美人のウェイトレスさんもいるようで、なかなかいいところかもしれない。今度一人で来よう。あのウェイトレスさん撮影OKかなぁ。
 きょろきょろとどこに座ろうかと席を見渡していると、そこに知っている顔を見た。店の隅のテーブルに一人でコーヒーを飲みながら勉強しているその男子は、クラスメイトの井上《いのうえ》寛《ひろし》だった。襟詰めを几帳面に一番上のボタンまで閉めている井上は、クラスでも一番の生真面目な奴で、いつも勉強ばかりしていてクラスの連中とも話さないような根暗なやつだ。きりっとした顔立ちをしているが、どうにも暗さが体中から染み出ていて気持ちが悪い。内面で何を考えているのかまったくわからない。
「よお井上。奇遇だな。こんなところでも勉強してるのかい?」
 ぼくがふとそう話しかけると、井上はあからさまに嫌そうな顔をして舌打ちをした。まったくなんだよ。このぼくが折角好意で話しかけてやってるのに。だからクラスで浮いてるんだよ、ガリ勉野郎。
 ぼくを無視した井上を蹴り飛ばしてやろうかとも思ったが、お姉ちゃんに迷惑をかけるのは駄目だなとぼくは落ち着きをなんとか取り戻す。
「さあお姉ちゃん。席へつこうよ」
 と、ぼくがお姉ちゃんに話しかけるが、お姉ちゃんは固まったようにとある一点へと視線を向けていた。どうしたんだろうかとぼくはお姉ちゃんの肩ごしからその視線をたどっていく。
 すると、その視線の先にはテーブルの上に置かれているチョコレートパフェがあった。まったくお姉ちゃんはどれだけ食い意地がはっているのだろうか。もう、そんながっついていると太るよ。ああ、そうしたらぷにぷにになったお姉ちゃんのお腹に顔をうずめたい。きっと溶けるように柔らかいのだろうな。
「あれ、あれは……?」
 しかし向けるべき視線はパフェではなかった。そのパフェを食べているのはまたもぼくたちがよく知る人物だったからである。
 そこに座っている小柄な、子犬みたいな女の子はクラスメイトの牧村優子であった。
 四月に同じくクラスメイトの藤森飛鳥と飛び降り心中を図ったと一時期少し話題になっていたのを思い出した。藤森はよく授業中にわけのわからない言葉を叫んで飛び出したり、よく発作を起こして保健室へと運ばれる問題児だ。できれば関わりあいたくはないタイプだろう。牧村本人もいつも空想に浸ってるような痛い女で、正直ぼくは喋ったこともないし喋りたくもない。
 その牧村の前には|見たこともない女《・・・・・・・》が座っている。
 透き通るような亜麻色の長髪で、綺麗だがどこか人形めいた顔のつくりをしている女の子だった。だが所詮はお姉ちゃんに比べれば雑草のようなものだ。たとえ美の女神でもお姉ちゃんの美しさを超えるものは存在しない。
 その女と牧村は気持ち悪く見つめあっている。何を話しているのかわからないがなんだか不気味だ。
 ぼくとお姉ちゃんがそっちを見ていることに気付いたその女は、ふっとこちらに視線を向ける。黒いダイヤのようなその瞳は宇宙のように底が見えず、何を考えているのかまったく読めない。ぎこちない中途半端な微笑みを向けてぼくたちを見つめている。
「あ、昴さんに凛人くん。珍しいねこんなところで会うなんて」
 女がぼくらのほうを見たことで、牧村もぼくたちの存在に気付いたのかそう話しかけてきた。余計なことを。無視してやろうかと思ったが、
「……………こんにちは優子ちゃん」
 お姉ちゃんがぺこりと礼儀正しくお辞儀をして挨拶をしていたので、ぼくも無視するわけにはいかなくなってしまう。
「よお牧村。そっちの女の子は誰なんだい。紹介してくれよ」
「何言ってるの凛人くん。私たちのクラスメイトじゃない」
 そう言われぼくの頭には「?」マークが浮かぶ。何を言っているんだ。この女が3年Y組の生徒? そんなはずはない。|こんな奴はクラスにいない《・・・・・・・・・・・・》。
 だが牧村は嘘を言っているような顔をしてはいなかった。ごく普通の表情でそう言っている。どういうことだ。この女は誰だ。
「紅葉賀昴さんに凛人さん。私のことを忘れてしまったのかしら。酷いわ。昨日も教室で会ったじゃないですか。私です。柏木蛍です」
 柏木蛍。
 その名前を聞いた瞬間、ぼくの頭はぐわんぐわんと鳴り、立ちくらみがした。
「…………ああ、蛍ちゃん。こんにちは」
 お姉ちゃんはそう彼女の名を呼びまたもぺこりとお辞儀をする。
 そうだ、柏木はぼくたちのクラスメイトじゃないか。お姉ちゃんとも気が合う大事な友達だ。なぜそのことを忘れていたのだろう。
 柏木はいつもクラスの人気もので、問題児ばかりのY組をまとめている聡明な女の子である。まるで天使のように優しく美しい彼女を嫌う人間はこの世にいないだろう。お姉ちゃんには敵わないとはいえ、柏木もまた神に寵愛された存在なのかもしれない。
「そうだ、昴さんも凛人さんもここに座ってください。一緒に私の話を聞いてほしいんです」
 柏木は上目遣いでぼくを見つめてそう言った。
 お姉ちゃんは柏木の隣に座ってしまい、ぼくも仕方なく牧村の隣へと腰を下ろす。牧村はキラキラと目を輝かせて柏木を見つめている。お姉ちゃんは牧村のパフェを黙って食べている。なんだか妙な組み合わせだなと思いつつも、ぼくも柏木の奇妙な笑顔から目を離せない。
 そして柏木はゆっくりとその口を開いて、こう言った。
「ねえみなさん。あなたたちは何か他人にはわからない“心の傷”を持っていませんか?」








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