【ある中華料理店店員の選択】 その2


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【ある中華料理店店員の選択】 その2



4.風紀委員隊員より本部への通信記録

「あー、こちら○○隊の者だ本部聞こえるか? どうぞ」
『聞こえる。どうぞ』
「ここは臭くてかなわん。どうぞ」
『知ったことか。どうぞ』
「えー、現在地だが学生証が見つかった場所からさらに奥へ進んでいる。どうぞ」
『何か不審な点はないか? どうぞ』
「無い、というか普通の路地裏だ。どうぞ」
『一応確認のためだ文句言わずに進め。どうぞ』
「了解、後で一発殴ってやる。どうぞ」
『今、横に風紀委員長がいるんだが。どうぞ』
「やだなぁ、冗談ですよ。どうぞ」
『スマン、今のは嘘だ。どうぞ』
「地獄に落ちやがれ。どうぞ」
『お前が落ちた後でな、今どの辺だ? どうぞ』
「どの辺って言われても迷路みたいに入り組んでるんだが、そもそも何処へ行けばいいんだ? どうぞ」
『何処へ行く、じゃなくて探索しろ。どうぞ』
「探索か……ぞっとしねぇな。どうぞ」
『気持ちは分かるが、もしそうなら供養してやらにゃならん。どうぞ』
「まぁな、おうお前らはそっちの筋いけ、くまなく探せよ……ああ、すまん。どうぞ」
『隊を分けたのか、念のためこちらでもミズダイアモンドが協力してくれてるが警戒は怠るなよ。どうぞ』
「ああ、分かってる。俺たちも上級なんて会ったことも無いからな、スリーマンセルで組ませてる。どうぞ」
『了解した、しばらく探索を頼む。どうぞ』
「了解、どうぞ」

 数十分後

「本部、聞こえるか。どうぞ」
『聞こえている。どうぞ』
「現在分けた隊のいくつかが既に路地裏から大通りに出ちまった、もう数組が探し回ってるがそれらしきものは無い。どうぞ」
『了解、地図によるとその付近の路地裏に少し開けた場所があるらしい、そこを見てもらえるか? どうぞ』
「開けたところ? そんなもんあるのか。どうぞ」
『知らん、こちらの地図も結構古いものだ。どうぞ』
「なんだそりゃ、もっとしっかり確かめろよ。どうぞ」
『古い地図しかないんだよ、島の整備のほうに金回ってるんだろ。どうぞ』
「それにしたってなぁ……お? ああ、どうぞ」
『どうした。どうぞ』
「突き当たりだ、本当に開けた場所なんてあるのか? どうぞ」
『地図は転送されているだろう。どうぞ』
「……触ってみたが完全にコンクリートの壁だな、地図も確認したが間違いない。どうぞ」
『じゃ、この地図やっぱり間違ってるのか。どうぞ』
「隊の連中からも地図どおりの道じゃない、って連絡が複数入ってる。地図の不備だろ。どうぞ」
『了解、念のため帰り道でも探索を頼む。どうぞ』
「了解、どうぞ」



5.中華料理店「大車輪」

 拍手は馴染みのバイト先へと帰ってきていた。
 ジョーカーと名乗る男からもらったマスクを着けて学園内を走りぬけ、見知った商店街の入り口へ。
 念のため裏口を使おうかと思ったが、裏路地への入り口はテープが張られ風紀委員が何人か立番していたので人ごみに紛れて表から普通に進入。
 鍵はバイトの最古人として無くさぬようにベルトに直接紐で結び付けてあった。
 幸いというべきか、今日は水曜日で店は定休日。
 他のバイトや社員は勿論のこと、店長も今日は店に来ることは無い。
 不法入島がばれていない間はとりあえずの隠れ家にはなるだろう。
 ばれれば間違いなく一番あやしい場所という危険性はあるが、今は他に選択肢がない。
 水に漬けてある洗い物は昨日の晩に不精して家に帰った時のまま。
 壁に掛けられた油で黄ばんだ時計は午後1時半を指している。
「半日と少し前にあいつがここに居ただなんて思えないな」
 今日は朝からの数時間で色んなことがありすぎた。
 風紀委員にしょっ引かれ、入島ゲートで星崎に会い、占い部とかいう所で変なヤツにあった。
 打撲、冷水に漬かった事による体力の消耗。
 そしてとりあえず何よりも空腹が辛い。
 何時ものごとく勝手知ったる動きで簡単にチャーハンを作る。
 空腹を感じるのに何故か食べ物を受け付けない口に無理矢理に詰め込み水で飲み下す。
 それから洗い物を済ませ、椅子について人心地。
「って違う! こんな事してる暇は無いっ!」
 しっかりと着替えて被っていたコック帽を床に叩きつけた。
 確かにそうだ、あいつは生きている、と思う。
 あのインチキ臭い占い師も「生きてるんじゃね?」とあくび交じりで言っていた……生きてるよな?
 しかし、ここにきてはたと気付いたことがあった。
「俺は、どうすれば良いんだ?」
 手がかりなど何も無い。
 何せ捜査活動を続けている風紀委員ですら何も見つからないと言っていた。
 どうすれば、と頭を抱えていると昔懐かしい黒電話が耳障りに自己主張を始めた。
 しばらく放っていたが一向に鳴り止まない。
 思考の邪魔をされ続けるのに限界が来たのか拍手が受話器を取った。
「はい、大車輪」
『あー、その声は出前のにーさんね』
「へ?」
『ちょとばかし遅いんだけどね、大工部まで出前頼めないー?』
「ああ、大工部の部長さんか」
 頭にまず浮かんだのは声の主の豊満なおっぱい。
 そしてクラスメートの美作聖《みまさかひじり》のこと。
 確か今聞いた大工部の会計をやっていた筈だ。
 それから夏に一度行ってから月に数回、出前を頼んでくれていたのを思い出した。
「すいません、今日休みなんですよ」
『よねー、でもそこを何とかならないかな?』
「うーん、申し訳無いですが定休日なもんで」
『あー、じゃあさ、屋台出してよ屋台。あれ作ったの私たちなんだからちょっとくらい良いじゃない』
「だから、無理――って何だって?」
 屋台と聞いてすぐに浮かぶのは7月の店崩壊時に窮地(主に拍手の財布的な意味で)を救ってくれたあれ。
 店長が言うにはとある人からもらったとのことだったが。
 店崩壊した次の日にはもう屋台があってビックリしたのを思い出す。
「そっか、あの屋台は大工部が作ってくれたのか」
『そーよー、夕方にいきなりやってきてこういうのを作れの一点張りで聞かなかったんだから。良い彼女持ってるわねー』
「……彼女?」
『確か『知り合いのバイト先がピンチだから』とか言ってた気がするけどね。『明日までに作れ、代わりに地鎮祭は安くやってやる』って神下ろしなんてのが出来る子に言われたら張りきるしかないじゃない? 作るのも随分と手伝ってもらったし良い彼女よねー、本当に』
 お店直したのもうちらなんだからね、と続ける
 拍手の知り合いで神下ろしなんて芸当が出来るのは一人しか居ない。
 あの事件の次の日、あいつは何をしていた?
 対ラルヴァ戦の書類が朝一で提出もされず、特に何の用も無いのに寮までの糞暑い道をついて来た。
 今更になって思い返す。
 あいつが何を考えて行動していたのかは分からない。
 ただ、何時も何かしらの理由を持って動いていた。
 七夕を思い出す、夏の海を思い出す、ハロウィンを思い出す、そして昨日のクリスマスイブを思い出す。
(あれ、あいつ食に関してしか動いてなくね?)
 確かに毎度食に関することだったが、それでもそのおかげで拍手が助かっていたのも事実。
『もしもーし? 兄さんどうしあ、こらせーちゃん!』
 受話器の向こう側でドタバタと暴れる音が聞こえ、
『あ、もしもし拍手くん?』
「その声、美作か」
 聞き覚えのある声が出た。
『うん、無茶言ってごめんね。部長がいきなり「チャーハン食べたい!」って、止めたのに電話かけたみたいで』
 多分まだ暴れているのだろう、申し訳無さそうな美作の声の奥から「落ち着いて!」だの「はなーせー」と言った声がする。
『それじゃ、またね』
「待った美作、配達は出来ないけど取りにきてくれるなら作るぞ。とはいえ店にいるのは俺だけなんでチャーハンくらいしか出せないけど」
 この店を建て直したのも、屋台を作ってくれたのも大工部。
 なら少しは恩を返しておかないとな。
 受話器を耳に当てたまま材料を確認する。……大丈夫だ、十二分にある。
『それで十分だよ。じゃ、注文と……あ、そうだ拍手くん』
「うん?」
『大晦日にクラスの皆で双葉神宮に二年参りに行こうって話聞いてる?』
「いや、初耳だ」
『あ、やっぱり。でも今言ったからちゃんと予定空けておいてね』
「……美作、俺が神道関係者だって忘れてないか?」
 たっぷり十秒ほどの沈黙を経て美作が注文を告げてきた。



 出来上がるのも早々にやってきた少年が大工部へ料理を転送させ、二、三の社交辞令を交わし代金を置くと少年は足早に帰っていった。
 少し多めに作ったせいか、カウンターにはチャーハンが一人前まだ湯気を立てている。
 チャーシュー多めの実に旨そうな出来だが、拍手には食べられない。
 目を放して、再び戻すがチャーハンは変わらずその場にあった。
「何時もならあいつがやってきて勝手に食ってるんだがなぁ」
 何度と無く掻っ攫われたチャーハンを思い出し拍手の顔に笑みが零れる。
 しかし、すぐに笑みは消えた。
「笑ってる場合じゃねぇよな、あいつがそんなあっさりとくたばるなんて」
 絶対に思えない。
 思えないが、朝に言われたことを思い出した。
「生きていればせんせーさんの索敵で引っ掛かるって言ってたな。でもあの占い師は……あてにならない?」
 ニヤケ顔を思いだして、頭を振る。
「少なくとも、悪趣味な考えは持ってないタイプだ。あの馬鹿は何処かで生きている筈」
 でも、生きていれば――
「あー! こんがらがって来た! 生きてて生きてない? なんだゲームみたいに石にでもなってんのか?」
 良い線いってる、と思ったが等身大の石像なんて風紀委員が気付かないはずが無い。
 じゃあどうなってるんだ……?
 しばらく考え、頭をガシガシと乱暴に掻く拍手。
 完全に手詰まりだった。
 外に出て探し回るのは風紀委員が見回りしている以上派手には出来ない。
 かと言って闇雲にやっても意味が無い。
「……」
 拍手が黙り考え込むことで店内には静寂が訪れた。
 数分考えるが、何も思いつきはしない。
 何よりも情報が無いのだ。
「くそっ、何か無いのか?」
 拍手の嘆きとほぼ同時、立て付けの悪い引き戸に誰かが手を掛けた。
「――っ!?」
 しまった、拍手の背中に冷たいものが下りる。
 さっき大工部の少年が出て行った時に鍵を閉めるのを忘れていたのだ。
 咄嗟にカウンターの中にしゃがみ込み姿を隠したが、入ってきたのが風紀委員だとしたらもうどうしようもない。
 狭い店内を見渡されたら隠れきるなんて不可能、振り切って外に出ても巡回に見つかるのは時間の問題、裏口で出ようにも鍵を開けて出る間に捕まるだろう。
 しかし、店内に入ってきたのは風紀委員ではなかった。
「……留守か? 戸締りもせずに出かけるなどと無用心な」
「蛇蝎おにいちゃん、これ運んだんだからもう帰ってもいーい? 今日も僕約束あるんだけど」
 この声、そして名前は、
「蛇蝎さんと相島くんか」
 立ち上がりカウンター越しに入り口のほうを見る。
 丁度何処かから岡持ちを取り出して机の上に置こうとする相島陸《あいじまりく》と、その横に蛇蝎兇次郎《だかつきょうじろう》が立っていた。
「居たのなら声くらいかけろ拍手よ」
「ああ、すいません蛇蝎さんちょっと立て込んでたもんで」
 しゃがんだ時に掴んでおいたタワシを見せる。
 ふむ、と蛇蝎が軽く頷いた。
「年の瀬は慌しいからな、一年の締めくくりはキッチリとせねばならん……相島まだ用事は終わっていない。勝手に出て行こうとするな」
 拍手に気を取られた隙にこっそり出て行こうとしていた相島だったが、蛇蝎にはお見通しだったようだ。
 引き止められた相島は腕時計を眺めると、約束の時間が過ぎたのだろうか嘆きながら椅子に腰掛けた。
「蛇蝎さん用事ってなんです?」
「昨日取りに来ると言っていたのに昼になっても来ないから容器を持って来てやったのだ」
「あー、すいません今日はちょっと朝からドタバタしてましてね」
 そういえば昨夜そう言った記憶があった。今朝からのドタバタですっかりと忘れてしまっていたのだが。
「昼までに取りに行かなかったからって、わざわざ持ってきてもらわなくても良かったんですけどもね。ご迷惑掛けますし」
「気にするなついでだ。それよりもドタバタ、か。ふむ、中々に面白いことになっているようだな?」
 何時もの仏頂面を捨ててニタリ、と蛇蝎が笑った。
「いやいや何も面白いことなんてありませんよ?」
 何時も通りですよと言いながら拍手はしゃがみ込み、持ったタワシで力強く床を擦る。
「ほう、何も無いと」
「無いですねぇ」
「年の瀬だというのにか?」
「年の瀬だからこそですよ」
 拍手の床を擦る力が増して、ガシガシというタワシの悲鳴が大きくなった。
「では、神楽二礼の件もか?」
 その一言で拍手の動きが完全に止まる。
「蛇蝎さんあんた何処まで……もしかして風紀、いや醒徒会は何か声明でも出したんですか!?」
「大声を出すな、この店は本来なら定休日。人の出入りは無いはずだろう」
 拍手がタワシを放り出して立ち上がり、蛇蝎を見た。
「風紀も醒徒会もこの件については極秘でやっている。外を見ていないのか? 誰も避難などしていない」
 肩越しに顎で外を示す蛇蝎。
「あ……確かに。じゃあ何であいつの事」
「何度も言わせるな、拍手よ」
 ニタリという蛇のような笑いから、ニヤリという小馬鹿にしたような笑みに表情を変えると、
「蛇の道は蛇だ」
 そう言い切った。
 しばらく拍手の反応を窺い、さて、と前置きをいれると蛇蝎の雰囲気が変わる。
 多少はあった砕けた感じが一切無くなり、それにつられるように室内の空気が引き締まった。
「馬鹿げた掛け合いはもう良いだろう。拍手よ取引だ」
「取引?」
「貴様が今一番欲しがっているモノかも知れん情報をくれてやる」
「対価は?」
「風紀委員や醒徒会よりも先にこの件を終わらせろ、それだけだ」
 拍手が頭を思い切り前に倒す。
 足と背が直角になるような形。
 最敬礼と呼ばれる体勢をとり、拍手は蛇蝎に礼を入れた。



 冬の日が落ちるのは早い。
 まだ午後3時過ぎだというのに西の空がほんの僅か赤みがかっていた。
 擦りガラスのはめ込まれた引き戸の向こうではまだ人々が活発に活動している。
 そういえば今日はクリスマスだったか、そう思う拍手の脳裏を蛇蝎が言い残していった言葉がよぎっていく。
「約五ヶ月前にこの店にトラックが突っ込んだ事件があったな、その裏であった事件は拍手お前がよく知っている筈だ」
 コックスーツから制服に着替えた拍手はゆっくりとロッカーの扉を閉じる。
「その顛末を書かれた報告書には路地裏の最奥部には4m四方の空間があったそうだが」
 一年半以上もお世話になっているバイト先を一通り眺め、ホールとキッチンの境目付近の壁に供えてある神棚に二礼二拍手一礼をする。
「先ほど風紀委員の通信ではその場所には何も無い、いや、4m四方の空間が無くただの行き止まりでしかなかったそうだ」
 出来れば双葉神宮にまで行ってやりたかったが時間が無かった。
「建築部全てに確認を取ったが、返答は『あの場所に何かを建てた事は無い、そんな場所すら知らん』」
 靴紐もしっかりと結んだ、ジャンバーはいらないだろう。
「では、その4m四方の空間には今何があるのだろうな?」
 何があるのかは分からない、ただあいつに関する何かがあそこにある。
 昨日の晩に飯食って12時間以上何も食っていないんだ腹を空かせていることだろう。
 無駄になりかけたチャーハンは相島に預かってもらった。
 事件が終われば蛇蝎さんと一緒に持ってきてくれるはずだ。
 聞けば空間に放り込んだものは保温がばっちりとのこと、使いやすい能力を持っているのが地味に羨ましいと感じた。
 何か役に立つものは無いかとさっきまでロッカーを漁っていたが何も無かった。
 暗くなる前に行かねばならない。
 何気なくズボンじゃなく上着の胸ポケットに手を突っ込むと硬い何かが指先に触れた。

「ん?」
 丸くて硬い金属っぽいもの。
 それに付随している紐を摘んで引き抜く。
「これは、そうか」
 店内に入る僅かな日の光を反射して鈍く光る、鈴。
 昨日日付が変わる直前に交換し合った神具。
 バチ当たりだが、拍手の頭からはすっぽりと存在が抜けていた。
「頼む、神様」
 鈴を両手で包み込み、祈る。
 どうかこれから俺が向かう先であいつが生きていますように、と。
 その願いが届いたのかどうかは分からない。
 しかし、包み込んでいた指を開くとさきほどまでただの鈴だったはずのものが淡く発光していた。
 それを見て拍手があることを思い出す。
 慌てた動きで店の隅に近寄る。
「あいたぁっ!」
 余りに慌てたせいでテーブルを避けきれずに拍手が転んだ。
 まるでヘッドスライディングでも決めるように狭い床を滑り、減速しきれず壁に頭をぶつける。
「おおおおおおお」
 ぶつけた部分を片手で押さえ、今日何度目か丸まり悶えるがすぐに立ち直った。
 押さえていた手に握りこんでいた鈴の光が僅かながら痛みを取り去っていったためだ。
 店の隅、状態を起こして座りこんだ拍手の目の先には昨夜、神楽二礼が神下ろしをする際に設置した結界石がほんの少し光を残していた。
 鈴を近づけると呼応するかのように震える。
 小さく、しかし澄んだ音を立てて鈴がなった。
 この場は舞台、神を下ろす場。
 例え巫女がその場を下りようが役目を終えるまでは場は続く。
 時と共に力は薄れるが、消えていないということはつまり、
「は、はははっ! やっぱな、そうそうくたばるタマじゃないよなぁ!」
 神楽二礼はまだ何処かで生きている。



6.犯人の正体

 走る。
 走る。
 カビと埃と生ごみの匂いがする裏路地は以前に走った強い夏の光と比べると、若干弱い冬の光ではまったく世界が違う。
 出る前に見た時計では4時まで後少し時間があったというのに路地裏は既に薄暗い。
 常に日陰であるせいもあってか、気温も段違いに低かった。
 しかし、そんなものは関係ない。
 ただ、走る。
 ペース配分を間違えた肺が更なる空気を欲し、その行き来の為に喉も痛む。
 しかし、そんなものは関係ない。
 拍手はただ、走る。
 手のひらの中、店の裏口を出たときには光すら失っていた鈴が再び淡く輝いている。
 激しい上下運動のせいではない、主を呼んで鈴が鳴る。
「ぜひぃっ、ごっへっ、げほっ、ふひっ」
 喉の痛みに咳ごみ息が止まるが足は止まらない。
 とにかく一分一秒でも早く走る。
 見覚えのある定食屋の裏を抜け、焦げてボロボロになった植木鉢をかわす。
「はっ、はぁっはぁっ」
 やがて拍手が足を止めた。
 それ程走ったわけではないが、耳の奥で心臓が音を立て、口からは白い息、首元からは湯気が昇っている。
 軽く頭を振ると毛先から汗が玉となって宙を舞った。
 約五ヶ月前の夏の日、手の中で今もなお主を求めて震える鈴の持ち主と共に戦った舞台。
 それが確かに、
「確かにっ、こりゃ、変だわなっ」
 無かった。
 4m四方の空間は無く、その入り口にあたる路地にはコンクリートの壁が聳《そび》え立っている。
 ふぅふぅと深呼吸をして拍手は息を整えると周囲を見渡す。
 薄暗闇で細かい部分までは見えないが、道を間違えてはいない。
 数箇所ある目印もしっかりと確認したし以前の「転がり目玉」が移動する際に抉った傷がコンクリート壁に残っている。
 そして何よりも鈴が、主はこの奥だと告げている。
「ふむ」
 とりあえず拍手はありえない筈の壁に手をつける。
 ザラザラとしたコンクリート特有の感触がした。
 何もおかしな所は無い。
 軽くノックするように打ってみるが、分厚いコンクリートの感触その物だった。
「どうなってんだ、いったい」
 さっき蛇蝎は工事された筈は無い、そう言っていたが。
 一瞬拍手の脳裏に自分の持つ唯一の武器『発勁』という選択肢が出るが、すぐに消した。
 厚さ10cmそこいらならともかく、それ以上の厚みでは何処まで通るのか分からない。
 ただでさえ体力を消耗するものを確信も無しに無駄打ちするのは気が引けた。
 上を見上げると結構な高さに四角く切り取られた空が赤く染まっているのが見える。
 ここに来て再び行き当たりばったりの不備が出た。
「しまった、来ればどうにかなると思ってたのか俺は」
 実際、この奥には間違いなく何かある。
 ここに来れば道が開けると思っていたのだ。
 どうしようか、空を見ることを止め壁を見るが何も変化は無い。
 鈴も淡い光と僅かな振動を続けるのみだった。
 少し疲れを感じて壁に背を預けた。
 勢い込んで走ってきたものの壁を前にどうすることも出来ない。
「そうだ、あいつらに連絡を――」
 知り合いの内何人かならこの壁を容易く破壊出来るだろう。
 上着のポケットに手を突っ込み、
「……そうだった、学生証取り上げられてたんだったな」
 携帯代わりに日頃から使っていた多機能手帳は今は風紀委員の詰め所にある金庫か何かの中だった。
 戻って誰かを呼ぼうにも連絡先が分からない。
 かといって下手に大通りに出れば風紀委員に見つかるかもしれない。
 大きくため息吐いた。
 疲れからか壁に体が溶け込みめり込んでいくような感触すらある。
 肉体どころか精神にも疲れが出たか、そう思い体を起こそうとして、
「な、に……?」
 動かなかった。
 めり込んでいくような感触は幻覚ではなく、現実のもの。
 本当に拍手の体はコンクリートの壁に飲み込まれつつあった。
「いや、これコンクリートじゃねぇ!」
 ザラザラとしたコンクリートは色を変え、地面に水平だった壁は形を変える。
 黒いゴムのような質感、これに拍手は覚えがあった。
 そしてその名を叫ぶより早く、裏路地から人の気配が消えた。


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