【から笑うペテン師】


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 少年は逃げていた。
 視界を遮るような夜の闇の中を必死に走る。
 足の筋肉は疲労のため悲鳴を上げ、冬の凍てついた空気が心臓を刺激し、長時間全速力で駆けているため肺が痛み呼吸もままならない。
 恐怖と絶望と悔しさと情けなさが一気に彼に押し寄せ、少年の顔は涙でくしゃくしゃになってしまっている。
 なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか。
 なぜ追われなければならないのか。
 一体だれが自分を追っているのか。
 少年にはそれがわからなかった。
 少年の学園での立ち位置はいわゆる落ちこぼれだった。それゆえ不良として、自分より弱い人間だけを標的にしていつも遊んでいた。
 少年にとって世界は弱肉強食で、自分より弱い人間は搾取されるために存在しているのだと無意識に考えていた。弱い奴は殴っても何も言わない。弱い奴は金を脅し取っても何も言わない。それが当たり前。それが自然の摂理だと。
 そう、自分は狩りをしているだけなのだ。
 肉食獣の自分には草を食んで生きているような人間を狩りたてる権利があるのだ。
 そう思っていた。
(なのに、なのになんで――!)
 少年の茶髪の髪が風に乱れる。腰までズボンをずりおろしているから走りづらく、裾を踏んで転んでしまうかもしれない。だが立ち止って穿きなおす時間はない。すぐ近くに自分の敵は迫っている。少しでも動きを止めたならばすぐに攻撃されるだろう。
 少年は、まさか自分が狩られる側になるなんて夢にも思わなかった。
 いや、思いあがっていたのだ。ずっと安全圏にいた彼には|そいつ《・・・》は理解できない脅威だった。
 少年が駆けているのは夜の学園の中庭だった。夜の校舎は不気味で、死角だらけでどこから敵が見ているのかさっぱりわからない。中庭の花壇を走り抜け、次々と植えられていた花は踏みつけられていく。そんなことを気にしてはいられないほどに少年は逃げることに頭がいっぱいのようである。夜遅くまでラグビー部の部室でタバコを吸っていて、その後眠っていたらこんな遅くなってしまったのだが、部室を出たところで彼は突然襲われたのであった。頭を何かで殴られ、今もこめかみから血が流れ続けている。頭ががんがんとし、目まいがする。
 だがなんとか必死に走り、彼は逃走を図ったのだ。
(この中庭を抜ければもうすぐ校門だ。早く逃げて誰かに助けを――)
 彼は少しだけ安堵の表情になる。きっと自分は助かる。なぜなら今までもずっとそうだったから。痛い思いをするのも、こうして逃げ回るのも自分の役割じゃない。全部弱い奴が担うべきなんだ。圧倒的な理不尽を前にしても、彼はその甘い考えを捨て切れずにいた。
 だが最悪の脅威は、彼の意志を無視してやってくる。
「あぎぁ!」
 少年の喉から悲鳴にならない呻き声が漏れる。
 突然左足に衝撃が走った。驚きはすぐに激痛に変わり、左足のふくらはぎの肉は裂け、骨は完全に砕かれていく。
 その衝撃を受けた少年は、当然のごとく走るバランスを崩し、そのままの勢いで冷たい地面の上を激しく転がっていく。痛みと恐怖で何が起きたのか理解するのに少し時間がかかった。自分が地面に倒れているのか壁にもたれかかっているのかわからなくなるくらいに。
 なんとか顔を上げ、恐る恐る自分の左足を見ると、左足はありえない方向に折れ曲がり、ふくらはぎのあたりは潰れて血で染まっている。
(うう、なんなんだよ。痛いよ……母ちゃん……)
 その折れた足の近くにはピンポン玉ほどのサイズの鉄球が転がっている。恐らくそれが彼の足を砕いたものだと少年は確信した。そしてそれを見てぞっとせずにはいられなかった。もしあれが頭にでも当たっていれば即死だろう。自分の頭が砕かれ、脳漿が地面にぶちまけられる姿を想像して、彼の顔は生気が失われたように青くなっていく。
 だがそれ以上の恐怖がそぐそこまで迫っている。
 立ち上がれずに地面に耳を向けている少年は、誰かの足音が近づいてくることに気付いた。じゃりじゃりと土の上を歩く音。その歩調はゆっくりで、猫に追い詰められ、いたぶられるネズミのような気分を少年は味わっていた。
 だが窮鼠猫を噛むという言葉がある通りに、少年は痛みを必死にこらえながらポケットからナイフを取り出し、敵の接近を待つ。
(俺だけこんな目に合うなんておかしいだろ……。殺してやる、殺してやる!)
 少年の目はギラギラと輝き、狩る側の目に戻っていた。ナイフを構え、敵が油断して近づいてきたときを狙うのだ。その一発逆転の機を待ち、少年は息を殺し、得物を狙う豹のように地面に這いつくばったまま顔を上げた。
 目の前にはもう敵の足が見える。
 学校指定の制服のズボンに黒い靴。
 その人物の手にはボウガンのようなものが握られていた。実際にはそれは矢を飛ばすボウガンではなく、矢の代わりに鉄球を飛ばすプロッドと呼ばれる凶器だが、少年には知識が無いためよくわからなかっただろう。だがそれから発射された鉄球が自分の足を破壊したのだということは、文字通り痛いほど理解していた。
 だが発射口が今は下に向けられ、少年は今が好機だと思った。
(いまだ――!)
 少年はナイフをさっと彼の足に向けて突き出す。それは手負いの獣の最後の一噛み、ナイフは少年にとっての牙となる。
 しかし、少年の手は思い切り蹴りあげられ、ナイフは夜の空の暗闇に吸い込まれてどこかへ飛んでいってしまった。
 唖然とするしかない。
 最後の希望を一瞬で壊され、少年は蹴りあげられた自分の手の指が何本も折れていることにもすぐには気付けなかった。
 一瞬後に手に激痛が走り少年は絶叫を上げる。敵は鉄板が仕込まれた靴で、少年の手のひらを思い切り蹴ったのだ。そのため指は折れ、その衝撃でナイフは失われてしまった。
 敵はとどめとばかりにその少年の傷ついた手のひらを上からその靴で踏みつける。何度も。何度も。何度も踏みつけ、血が滲み出て指の骨が突き出てしまっている。
「もう、やめ、やめて……」
 少年は泣きながら訴えた。もはや手の痛みは限界を超え、まるで別の生き物が手首から生えているのではないかという錯覚に陥っているほどにマヒしていた。
 しかし敵は蹂躙をやめてくれない。
 踏みつけることに飽きたかのようにぴたりと踏みつけることはやめたが、今度はポケットから黒い物を取り出している。カチリという小さな音がしたかと思うとバチバチバチと激しい音を立て、それは青い火花を散らす。
「ウソだろ……」
 それは間違いなくスタンガンだった。それを見た瞬間背筋が凍り、ここから地獄が始まるのだと少年は悟る。
「安心して。出力は抑えているから。死にはしないよ」
 冷たく、張り詰めた空気に、その声は凛と響く。こんな恐ろしい暴力を振るう人間が発するものとは思えないほどに澄んだ声。
 だがその声に抑揚はなく、まるで感情を持っていない機械のように淡々と聞こえてくる。顔を見ようとしても、夜の闇は深く、ぼんやりと輪郭が見えるくらいだ。
「やめてくれ、やめてくれよぉ……。なんでもするから……」
 少年は涙を滝のように流しながら目の前の敵に頭を下げ、地面に額をこすりつけている。しかし、頭上から降り注ぐ言葉は氷よりも冷たい。
「“やめてくれ”か。駄目だね。きみは金田長平《かねだちょうへい》くんが同じように訴えても笑いながら殴り続けたんだろ」
 少年はその名前にどきりと身体を震わせる。
 金田長平は彼が毎日のようにイジメ、殴り、金をむしりとっていた気の弱いクラスメイトである。思いもしない名前が突然出され、彼は混乱していた。なぜあいつの名前がここで出てくるのか、さっぱり少年にはわからなかった。
「か、金田がどうしたって……?」
「ぼくは金田長平の依頼を受けて、復讐代行を果たしに来た」
 復讐。
 その言葉に少年は唖然とする。
「あの金田が俺に復讐だって……!? 冗談じゃない! 俺はこんな目に合わされなきゃいけないほど酷いことはしてない」
「きみは毎日彼を痛めつけ、辱めて恐喝していたと聞いたけど」
「そ、そんなことしてない……俺はちょっとした遊びで……」
「ならぼくもきみと遊んでいるだけさ。最高だね」
 そう言う声はやはり淡々としていて、彼の言い訳などどうでもいいのだということが伝わってくる。きっとこいつには何を言っても通じないのだろうと少年はぶるぶると体を震わせる。
 それでも少年が何かを言おうとすると、何の躊躇もなくそいつは少年の首筋にスタンガンを伸ばし、スイッチを入れた。
「あああああああああ!」
 激しい電流が身体を駆け廻り、手足の先が痙攣を始める。確かに電圧はそれほど高いものではないようだがそのせいで気絶もできない。そいつは何秒か電流を流し終わるとスイッチを切り、数十秒間を置いて再び電流を流した。それを数回繰り返していき、少年の目はぐりぐりと回り、身体はひきつり、泡を吹き始めていた。
 気絶したくてもできないぼんやりとした意識の中、雲に隠れていた月が顔を出し、目の前の敵の姿をサーチライトのように照らしていく。そうして少年はようやく目の前の人物が誰なのかを知ることになった。
「お前……D組の夏目《なつめ》……!」
 その人物は少年の同級生である夏目《なつめ》中也《ちゅうや》であった。少年は中也とは別のクラスではあるが、何度かクラス実習などで見かけたことがあった。
 月明かりが中也の輪郭をはっきりと浮きださせていく。中也の顔は中性的で、さらさらとした髪が夜風になびいている。しかし綺麗な顔をしているのに、まるで機械のように表情が無いため、不気味さを一層引き立たせている。真っ直ぐに見つめるその薄緑の瞳は、恐ろしいまでに光が無く、その口は真一文字につむられている。
「お前……本当に夏目なのか……?」
 少年は目の前に立つ人物が本当に自分の知る夏目中也と同一人物なのか疑わしく思えてきた。
 なぜなら彼が知っている中也は、いつもニコニコと愛想を振り、冗談を言って周りの人間を笑わせたり、友人にからかわれて困った顔をしたりしているごく普通の生徒だったからである。それなのにまるで人間とは思えないほどに冷たい声を発し、何の感情も見えないような顔をしていて、自分が見ているのはお化けなのではないかと少年は思えてきた。
「お、お化け……」
 少年はつい思っていたことを口に出してしまう。しまったとばかりに折れていない左手で口を塞ぐがもう遅い。また殴られると目を瞑っていると、突然とても乾いた笑い声が聞こえてきた。
「はははははは」
 それは無理矢理笑っているような、棒読みのような笑い方。
 少年が驚いて顔を上げると、中也が無表情のまま、無理矢理口を広げて笑っている。そのから笑う姿はまるで本当にお化けのようで、少年はぽかんとただ見ているしかなかった。
「お化け、か。面白いこと言うね。最高だね。父さんはぼくのことを化物だといい、おじいちゃんはぼくを鬼児と呼び、賢治兄さんはぼくのことをペテン師と呼んでいた。お化けってのもなかなか面白いね。笑えるね」
 そう言う中也の顔はまったく笑っておらず、ただまっすぐと少年の目を見ている。
「おっと、変だったかな? 気を抜くと顔の筋肉が上手く動かないんだよ。笑うってどういんだっけ、こうかな」
 中也は自分の手で頬を押し上げ、無理矢理笑顔を作っていた。そうして自分の顔をマッサージするようにこねくり回していて、ぱっと手を離すと、目は細くへの字になり、口はにこりと曲がり、そこにはいつも中也が学校で見せている笑顔があった。だがそれは今のこの状況とはあまりに不釣り合いで、凄まじく不気味である。
「うん。これでいいはずだ。ちゃんと笑えてるよね」
 そう言いながらも中也はスタンガンのスイッチを再び入れ、少年の身体は激しくのたうち回る。それを笑いながら中也は見ていた。
「ねえ。怖い? 怖い時ってどんな顔をすればいいの? そうやって泡吹いたり白目になればいいのかな。怖いってどんな気持ちなの? 痛いとどう違うの?」
 淡々と喋りながら中也は何度も何度もスタンガンを少年に当てる。中也がまたスイッチを切り、間をあけていると、
「お前、狂ってるよ……」
 と少年は呟いた。
「狂ってる? ぼくはまともだよ」
 中也はニコニコと笑いながらそう答える。それに対して少年は中也をキッと睨みつけた。
「絶対俺はお前を許さねえ。殺してやる……。金田の野郎も絶対に殺す!」
 少年はなんとか声を絞り出し、恐怖を押し殺して中也にそう言った。しかし中也は表情を変えず、さっとブレザーの胸ポケットから何かを取り出す。
「きみの妹さん中学生なんだってね。きみに似ず結構可愛いじゃないか。こんな子が泣くところをぼくは見たくないよ」
「!」
 中也が取り出したのは少年の妹の写真である。それを少年に見せつけ、ただニコニコと笑っている。
「や、やめろ! かおりには手を出すな!」
 少年は急に睨んでいた目を伏せ、懇願するように中也にそう言った。彼がどれだけつっぱっていようと、彼もまた家族を思える普通の少年である。家族に被害が行き、平気でいられるほど彼はクズではない。しかし、中也は容赦せずその写真をびりびりに引き裂いた。写真の破片が少年の顔に降り注ぎ、妹の千切れた顔が視界に入る。
「妹思いのいいお兄ちゃんだ。最高だね。だったらぼくが言いたいことはわかるよね」
「……」
 中也は押し黙る少年の耳元に口を近づけ、そっと囁く。
「“二度と金田長平に近づくな。ぼくのことも口外するな。今日のことは自分で怪我をしたと言え。でなければ今日以上の地獄をお前と、お前の妹に味あわせる”」
 それは地獄の底から聞こえてくるような冷たく重い言葉だった。
 安っぽい脅し文句のはずなのに、少年にはそれがとても恐ろしく、逆らったらどうなるか、おぞましい想像で頭が支配されていく。今まで感じたことのない恐怖と絶望が襲いかかり、少年はもう心を完全に折られてしまっていた。
「うう……」
「じゃあぼくはもう行かせてもらう。“部活”は終わりだ」
 そうして中也は夜の闇に溶け込み、やがて消えていった。
 少年は心に恐怖を叩きこまれ、身体に痛みを刻まれ、もう二度と中也の目の届くところには来ないだろう。
 少年は声を殺して泣いていた。


     ※※※


 “部活”を終え、中也は校門を出てアパートに帰る前に夜の部室《・・》に凶器を隠した。
 中也は探偵部という弟の龍之介《りゅうのすけ》が立ちあげた部活動を手伝っている。探偵部は表向きにはボランティア活動や助っ人活動を主にしていることになっているが、その裏で生徒たちからの“秘密の頼みごと”を金さえ受け取ればなんでもこなす請負屋の面を持っていた。ストーカー退治から復讐代行、犯罪になるであろうことも平気でしている。
 なぜこんなことをしているのか、それは中也自身にもよくわかっていない。
 弟に頼まれて仕事を手伝っているが、きっと自分は他人の感情に触れたいのだと自分の心を冷静に考察していた。
 なぜなら中也にはおよそ感情と呼べるものが理解できないからである。
 彼は人と同じように笑ったり、泣いたりすることができない。自分と他人は違う生き物なのではないかと思っていた時期もあるくらいに中也は己の呪われた性質に頭を抱えていた。完全に人形のような無感動なのではなく、周囲とのズレに羞恥を感じるほどに自意識は強く、それがまた中也を苦しめている。
 他人が持つ激しい怒りや憎悪、愛や友情、嘆きや悲しみ、絶望と焦燥。この仕事をしていると人間の内部に触れることができると中也は思っていた。そうすればいずれ、自分にも感情と言うものが理解できるのかもしれない、から笑いではなく、心から笑ったり泣いたりできるようになるんじゃないかと考えていた。



 中也が|それ《・・》に初めて気付いたのは五歳のときだった。
 幼稚園のころ、彼のクラスでは白くてまん丸の目の赤いウサギを飼っていた。クラスの子供たちはそのウサギのことを「シロちゃん、シロちゃん」と呼んで可愛がり、ケージ中を狭苦しいようにもぞもぞと動くウサギに毎日エサをあげていた。毎日子供たちが競うようにエサを与えていたためどんどんと肥えて大きくなりかがみモチみたいになっていく。
 みながウサギをに夢中になっているときも中也はそれを冷めた目で見つめていた。
 クラスのだれもがウサギを囲っているときも、中也は一人で壁のしみを数えていた。
 そんな日々が何日か過ぎたころ、ウサギがズタズタに切り裂かれ殺されているところを発見された。犯人は近所の変質者で、すぐに逮捕されたが子供たちが受けた衝撃は計り知れないだろう。
 みながウサギの死に悲しみ、涙を流している時も、中也だけは泣いてはいなかった。それどころかなぜみんなが目から水を流しているのか不思議でしょうがなかった。彼が目から涙を流す時は眠たいときかゴミが目に入ったときくらいだったので、その時中也はきっとみんな眠たいのだろう、夜更かしでもしたのかと思っていた。
 一人だけ涙を流さず、ぼーっとしている中也を見て、保育士は「きっとショックでシロちゃんが死んだことを理解できないのね。かわいそうに」と見当外れのことを言っていたことを彼は覚えている。
 だけどそれは違う。中也が理解できなかったのはウサギの死ではなく、悲しんでいるクラスのみんなだった。「ねえ、なんでみんな目から水を出してるの?」と率直なことを中也が聞くと、クラスの子供たちは中也を睨み、その日以来中也のことを無視するようになった。それ以前から中也は笑いもせず、怒りもしない子供だったから、もともと子供たちも中也に対してよい印象を持ってはいなかった。
 そして今回の件がきっかけで、中也を完全に存在しない物と扱うようになっていった。
 そこで中也は自分が周りの人間と違うと気付いたのだ。
 夏目家の兄弟は全員で五人。中也を含め、五人全員が心に欠陥を持っている。だから兄弟以外の人間と触れ、初めて中也は自分たちが異質だと気付いたのだった。
 疎外され始めた中也は、どうにかして人間のふりをしようと、“嘘”をつき始めることになった。
「“ウサギのシロは天国に行ったの。きっと天国でニンジンをいっぱい食べてるよ。だからみんな悲しまないで”」
 中也が思わずそう言うと、悲しんでいた子供たちは笑顔になり、彼の言葉に耳を傾けるようになった。
 それが中也の異能の覚醒でもあった。
 言葉が持つ力を増幅させ、相手の心を掌握する能力。ローレライの魔女のように彼が発する言葉には人を惑わす魔力が宿っていた。夏目家の長男、賢治《けんじ》は中也のこの力を“ペテン”と称し、そして、人を言葉で騙し続ける中也のことを“ペテン師”と揶揄していた。
 しかしこのときは中也自身も含め、誰も彼の異能には気付かず月日は過ぎる。
 中也が小学校に上がる直前に、彼らの母親は死に、同時に父親が失踪した。残された夏目家の子供たち五人は田舎の祖父のいる夏目家本家に引き取られることになったのだが、祖父は駆け落ちして家を出ていった中也たちの父と母のことを快く思っておらず、自分の|息子と娘《・・・・》のことを罵倒し、その落とし子である五人兄弟のことを鬼児と呼び、忌み嫌っていた。
 魔女同士の近親相姦により生まれた呪われし五人の兄妹。
 それからは祖父の家で地獄のような日々が続いていった。
 そう、双葉学園に引き取られるまでは――





(……なんでそんな昔のことを思い出してるんだろう)
 ふと我に返り、中也は部室の鍵を閉め、そのまま校門を出て道に出る。わずかな外灯の灯りを頼りに夜の街を歩いて行く。歩いていると冷たい空気が頬に当たり身を切るような寒さが襲ってきた。中也はマフラーを首に巻きつけながら、携帯電話を取り出して呼び出し音を押す。
 数回のコールで相手はすぐに出た。
『おいーっす』
「やあ龍之介。こっちの部活は終わったよ」
『ああ兄貴か。ご苦労さん。悪いな面倒なもん押しつけて』
 電話の向こうからは快活な少年の声が聞こえてくる。電話相手は中也の弟、魔女の一族夏目家の末っ子である龍之介であった。
「気にするな。大して手間もかからなかったよ。これで彼も安心して学園生活を続けられるだろうね」
『へっ、依頼人が誰かは知らないけど、俺はあまり復讐代行って好きじゃないんだよ。弱い奴はいつまでも人の力に頼ってばかりだから弱いままなんだよ。弱い奴は死ね。そう思うだろ兄貴』
「そうだね。でもその弱者から金をもらって、こういうことをしているぼくらが一番最悪な人種だろう」
『はっ、ちげーねーな』
「それで龍之介。そっちは大丈夫なのか」
『ああ、ストーカー退治なんて俺の十八番だからな。余裕だよ。よゆー。今晩にでも決着がつくね』
「そうか。無茶するなよ」
『わかってるよ。兄貴には感謝してるぜホント。朝顔《あさがお》や初音《はつね》だけじゃ機能しないからな。ユキ姉はまた引き籠ってるみたいだし』
「ああ、わかったよ。じゃあな」
 そして中也は通話を切り、ポケットに電話をねじ込んだ。
 ふうっと溜息をつくと、白い息がのぼり夜の暗闇に消えていく。
 こんなことをいつまで自分を続けていくのだろうか、そう考えながら中也は暗い道を一人歩き、帰路につく。




「中也くんお帰りなさい! ごはんにする? お風呂にする? そ・れ・と・も……スパイ&スパイ一緒にやる?」
「なんでファミコンなんだよ! 確かに神ゲーだけど! ……お腹減ったからごはん先にするよ」
 中也がアパートの自室の扉を開くと、玄関に彼の姉である晶子《あきこ》がエプロン姿で出迎えた。可愛らしいフリルのついたピンクのエプロンの下は黒いセーターで、清楚な印象を受けるロングスカートを穿いている。なぜか手に大きなクマのぬいぐるみを抱えていて、一見すると子供じゃないかと錯覚してしまう。
 眩しいまでの笑顔を中也に向け、とても楽しそうに「はーい。じゃあ今から作るね。今日はおいしくてあったかいウミガメのスープだよ。すてきなスープ、おかずはいらない。すてきなスープが二円ぽっち♪」と歌いながら台所へ向かっていった。
 中也はその間に部屋着に着替えながら、ふっと台所で食材を切っている晶子に目を向ける。さらさらと穏やかな川のように流れている黒い長髪。同情するほど控えめな胸と、小さなお尻が彼女の繊細な雰囲気を強調している。
 その姿はとても美しく、そしてとても儚いようなものに見えた。
 中也はそんな晶子に、後ろから抱きついていた。
 中也は膝をつき、晶子の腰のあたりに腕を回し、背中まで伸びている長髪に顔をうずめる。リンスと太陽のような懐かしい香りが鼻を刺激し、中也の心は癒されていく。
「どうしたの中也くん。これじゃあお料理できないよ」
 晶子は少しだけ困ったように、しかしとても穏やかな口調でそう言った。まるで悪夢を見て泣きじゃくる子供を、優しく寝かしつける母親のように柔らかな声。
「ごめんアキ姉。一分だけ、こうさせてくれ」
 中也は絞り出すようにそう呟く。
「もう、しょうがないなぁ中也くんは。いつまでたっても甘えんぼさんなんだから」
 晶子は愛おしそうにそう言った。
 “部活”のあとはいつもこうだった。
 人を傷つけ、欺き、陥れ、人の心をひっかき回す。自分がしていることはそういうことなのだという罪悪感だけが襲ってきて、理解できない黒いものに自分の心を押しつぶされそうになる。
 だけど自分はそういう生き方しかできないのだ。
 化物である自分は、他人を壊すことでしか世界と関わりを持てない。
 自分の中の闇と、人が持つ闇と触れあっているときだけが、中也にとって生きている実感を得られる至高のときだった。
「あっ、ホタルだ……。中也くん、窓の外にホタルが飛んでるよ。ほら、光ってる」
 晶子がぽつりと呟く。それを中也は彼女を抱きながら聞いていた。ホタル。ホタルがこの東京湾の双葉島にいるのだろうか。
 きっと何かを見間違えたのだろう。いや、もしかしたら死んだ人の魂が、光になって自分のところへ来ているのかもしれない。
(母さん……)
 中也は安らぎの中、ぼんやりとそう考えていた。


 ◇◆◇◆◇◆



「これでいいんだ。これで邪魔者はいなくなった」
 深い闇の中、金田長平は携帯電話に送られたメールを読みながらそう呟く。
 そのメールは探偵部の夏目中也からのものだ。そこには『依頼達成』の文字が書かれている。
 金田は自分をいじめる脅威が去ったことを知り、安堵の笑みを浮かべた。いや、違う。金田のその歪んだ笑みには別の意味も含まれていた。
「これで、これでかおりちゃん。きみは僕のものだ……」
 金田はとある家の庭に身を潜め、そこから家の中を覗いていた。彼が覗く窓の内側には、少女が無防備にも着替えを始めている。カーテンのほんのした隙間から、金田は張りつくように見つめている。
「ああ、かおりちゃん。なんて可愛くて綺麗なんだ。そのピンクの唇も、小さな胸も、全部、全部僕のものだ。あいつの妹とはとても思えない。あいつがいなくなった今、彼女はようやく僕のものになるんだ……」
 荒い息を立て、そう呟く金田の目には狂気が宿っていた。金田の手には新品のナイフが握られ、獲物を求めるようにその切っ先が光る。金田は目の前の少女、かおりを愛している。一目見た時から彼女の肉体を支配したいと願っていた。だがかおりには邪魔者がいた。それが自分を苛め、辱めていた者だと知った時、金田はようやく探偵部に依頼をすることに決めた。
「あいつは悪魔なんだ。きみの兄なんかじゃない。きみという天使を閉じ込めている悪魔だったんだ。だからあいつはきみと愛し合っている僕を憎み、僕を傷つけていたんだよね、でももう大丈夫。もう大丈夫なんだ。僕という騎士はもうきみの目の前だよ……」
 金田はゆっくりと立ちあがり、その窓に手をかける。 
 楽園はこのガラス戸の向こうにある。少女の肉に溺れ、二人だけの世界を生きるのだ。
「ようやく尻尾を出したかストーカー野郎」
 だが、金田の侵入は、突然の声に止められた。
 声の方向を振り向くと、庭の茂みから人影が現れた。
 それは金髪に、ピアスが特徴的な少年だった。その少年の手には金属バットが握られ、ゆっくりと金田のほうへ歩いてくる。
「だ、誰だ……!」
 金田は家の中のかおりに聞こえないよう、押し殺すようにそう尋ねる。だが、その少年は金田の心配を嘲笑うかのように大きな声で返事をする。
「誰だ? だって? それはこっちの台詞だっつーのストーカー野郎」
「ぼ、僕はストーカーなんかじゃない……! きみこそかおりちゃんの家で何をしている。きみこそストーカーじゃないのか!?」
「はいはい。ストーカーはみんなそう言うんだよね。まったく面倒くせえ……」
 少年は肩に担いだ金属バットをぽんぽんと叩く。そうしてぎろりと金田を睨みつけ、距離を縮めてくる。
「や、やめろ。来るな!」
「そういうわけにはいかねえんだよ。俺はかおりちゃんからストーカー退治を依頼されてるんだからよ。最近気持ち悪い視線や無言電話が続くってんで俺がわざわざ出向いたんだ」
「嘘だ!」
 かおりは自分のことを受け入れてくれてるはず。きっとそんなのはこの少年のでまかせに違いない。金田はそう考え、ナイフの切っ先を少年に向ける。
「嘘? 俺は兄貴とは違うんでね。嘘なんかつかねえし、つく必要もない。大人しくしろ」
 少年の見下したような視線と物言いに、金田は怒りを覚えた。こいつは自分とかおりの幸せを邪魔するものだ。かおりの兄同様、自分の目の前から消してやる。金田は少年に向かって駆けだし、ナイフを思い切り突き出した。
「――ちっ」
 ざくり。という感触がナイフから伝わってくる。皮膚を破り、肉を貫く感覚。
「あ、ああ……」
 だが金田がそう力なく呟く。ナイフは少年に届いていた。だが、突き刺さったのは少年の手のひらだった。少年はとっさに左手を前に突き出し、ナイフを手のひらで受け止めたのだ。ナイフは手のひらを貫通し、血が庭にぽつりぽつりと落ちていく。
「なんだよ、全然痛くねえじゃねえかやっぱり。どうした。俺に痛みを、もっと痛みを与えてくれよ」
 少年はそのままそのナイフを握りしめ、金田から取りあげてしまう。少年の指は刃により傷つき、さらに血が溢れる。だが少年の顔には苦痛は感じられず、むしろ無邪気な子供のような笑顔になっていた。
 少年は金田の襟首を掴みあげ、その顔を近づけて睨む。その時、ようやく金田はその少年が誰なのかを知った。月の光に照らされ、輪郭がはっきりと見える。それは金田の知っていた顔であった。
「お、お前探偵部の――夏目龍之介!」
「ご明答」
 その直後金田の足はその少年、龍之介に払われ、受け身も取れぬまま地面へと身体を叩きつけられる。呼吸が出来ず、か細い悲鳴が口から洩れる。その口を龍之介は咄嗟にガムテープで塞ぐ。
 龍之介は金田の上に馬乗りになり、取りあげたナイフを金田の指にあてがった。
「んー! んーんーっ!」
「痛みを教えてくれよ。痛いってのはどういう感覚なんだ。なあ、痛い時どんな顔するんだよ。教えてくれよ。なあ、なあ!」
 今から恐るべきことが行われる。金田はそう直感した。誰か助けてほしい。だが声は出せない。暴れても龍之介の力は強く、逃れることはできない。
 視線を上に向けると、窓にかおりが立っていた。
(ああ、かおりちゃん。助けて、きみの騎士様がピンチなんだ。早く誰が助けを!)
 金田はそう心の中で訴えかける。かおりと自分は心が通じ合っている。そう信じる金田は、きっと自分の思いが彼女に届くと願う。
 かおりはゆっくりと、わずかに窓を開き、金田を見下ろした。
「こいつがストーカー? 気持ち悪い……。龍之介くん、このキモイのがもう二度と私の前に顔を見せないように、痛めつけてあげて」
 かおりは嫌悪の表情でそう吐き捨て、ぴしゃりと窓とカーテンを閉めてしまう。
「りょーかい」
 龍之介は楽しそうにそう言う。 
 それと同時に金田の親指にナイフの刃が沈んでいく。
 そうして地獄が始まった。
 呪われし兄弟の凶行は止まらない。終わらない。

(了)








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