【猫髭博士と怖い噂 二怪目「うわばみ」】


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  「うわばみ」


 津村《つむら》鈴子《れいこ》は幼いころ、『うわばみ』に出会った。
 それは双葉学園に入学するずっと前のことで、実家の田舎にある森で遊んでいたら迷ってしまったのだ。
 深く、暗い森。緑黒の植物が支配するその森は、幼い少女であった鈴子の恐怖心を駆り立てるには十分であった。
 なんとかこの森から抜けようと森の中を歩いて行くが、方角もわからず、どんどん奥深くへと足を踏み入れるだけであった。
 しばらく歩いていると、鈴子の足元が崩れた。
 どうやら前日の大雨でぬかるんでいたようだ。鈴子はそのまま転がり落ちていった。
 そして、鈴子はその森にある大きな沼の中に落ち、沈んでいった。
 鈴子は死を覚悟した。祖母からずっと言い聞かされていた。この森の沼にはうわばみが住み着いていると。その沼に落ちた人間はうわばみに丸呑みにされるか、その沼で溺れ死ぬしかない。
 だから沼には近寄るな、森の奥へ踏み込むなときつく言われてきたのだ。
 その言葉の通り、沼の水は重く、鈴子はなすすべもなく沈んでいく。だがふっと体が軽くなったかと思うと、何かが自分の身体を押し上げて沼の水面へ運んで行ってくれたのだ。そして鈴子は地上に放り出された。
「ごほっごほっ!」
 と、沼の水を吐き出した鈴子は、沼のほうを見た。
 するとそこには、巨大な蛇が沼から顔を出し、ぎょろぎょろと鋭い目で鈴子を見つめていた。
 ぬめぬめとした鱗を光らせ、長い舌を出している姿はまさに蛇そのものだ。
 それが沼の主である『うわばみ』だ、と鈴子は直感でわかった。
 そして信じられないことに、その巨大な蛇うわばみは流暢に日本語を話し始めた。
「我は貴様を助けた。この恩に報いるのだ人間の子供よ。貴様が十六の歳を迎えた時、我は貴様を嫁に貰いに来る。いいか、必ず我は貴様のもとへと現れる。どこに居ようとも必ずだ」
 一方的にそう約束をとりつけ、うわばみは再び沼の底へと潜っていった。
 しばらくして鈴子は村人たちに救助された。その時の鈴子は、うわばみに助けられたことを夢だと思い込んだ。
 瀕死の状況になり、悪い夢を見たのだと、そう自分に言い聞かせたのであった。



 そしてそれから十年の月日が過ぎ、鈴子はそのことをすっかり忘れてしまっていた。
 だが十六歳の誕生日が近付いてきたある日、鈴子は真夜中に目を覚ました。
 ズル。
 ズル。
 ズル。
 そんな奇妙な音が寮の廊下から聞こえてきたのだ。
(何の音かしら……)
 何かが這い寄って来るようなその音は、段々とこちらに近づいてきているような気がした。そして、自分の部屋の扉の前でその音はぴたりと止まる。
 なんだか嫌な予感がしながらも、鈴子は扉の前に立った。しかし、その扉を開ける勇気はない。この先に何がいるのか、何かおぞましいものがいるのではないかという思いに囚われる。
 そうして鈴子が立ち尽くしていると、
「明日だ。思い出せ我のことを。必ず我は明日お主を嫁として貰いにゆく」
 そんな不気味で低い声が聞こえてきたのだ。
 その声を聞いた瞬間、鈴子は子供のころをすべて思い出した。
 うわばみとの約束を、思い出してしまったのだ。
 恐怖のあまり鈴子は夜明けまでその扉の前で立ち尽くしてしまっていた。





「猫髭《ねこひげ》博士?」
 翌日、鈴子はうわばみのことを担任の教師に相談した。
 しかし担任教師はラルヴァ関連に精通しておらず、その代わりにラルヴァ研究をしている大学部の学者を紹介してくると言った。
「そう。猫髭博士はラルヴァ研究で博士号を取った凄い人よ。きっとあなたの力になってくれるわ」
 担任教師は彼女を慰めるように鈴子の肩に手を置いた。
 そして紹介状を書いてもらい、鈴子は大学部の研究棟に足を踏み入れた。
(なんだか緊張するな……)
 制服姿で大学の施設に入るのはなんだか気まずい。しかしそんなことは言っていられない。鈴子は施設の地図を見ながら猫髭博士がいるという部屋へと向かっていく。
 その扉の前で鈴子は足を止め、コンコンとノックをした。
「あの~猫髭博士。高等部の津村ですけど……」
 すると、しばらく沈黙が流れた後、その扉がギイイイイと不気味な音を立てて、ゆっくりと開かれていく。
「あ、あの……」
 そう鈴子が言いかけた瞬間、鈴子は戦慄する。
 少しだけ開けられた扉の間から、幽霊が顔を覗かせていた。わずかに開いた扉から覗くその顔は、不気味に青白く、貞子のように長い髪の間からぎょろっとした目玉がこっちを見つめている。
「ひゃああああああああああ! お化けええええええええええええ!」
 鈴子は叫び声を上げて逃げようとした。しかしその瞬間扉はガラリと大きく開かれ、そこから伸びてきた手に襟首を掴まれて部屋に引きずり込まれた。
「離して! 食べられる! 呪い殺される!」
「おおお、落ち着きたまえ。わ、私は人間だよ」
 そんな優しい声が聞こえ、鈴子は「え?」と後ろを振り返る。
 そこにはやはり幽霊のような青白い顔をした男が立っていた。しかし足はあるようで、ちゃんと生きた人間のようだった。
「あ、あの……。あなたが猫髭博士ですか?」
「いかにも。私が猫髭|京一郎《きょういちろう》ですけど」
 それを聞いて鈴子は驚いた。『博士』という呼び名から、もっと老練な紳士を思い浮かべていたのだが、目の前の男は三十代半ばと言った感じであった。しかし彼はその年齢に似合わない、古臭い灰色の着物と袴を着こんでいた。それがまた顔と相まって幽霊のような不気味な印象を与えている。
「そんなに私の顔は怖いかなぁ……」
「ごめんなさい……」
 鈴子は申し訳なさそうに謝るが、猫髭は自分の顔を手鏡で見つめながらがっくりと肩を落としていた。鈴子はそのまま部屋に通され、研究室の椅子に座らされる。
「あの、猫髭博士」
「ああ、キミが津村鈴子くんだね。キミの先生から話は聞いているよ」
 猫髭は『にゃんにゃん猫ちゃん』という可愛い文字が書かれたカップにイチゴミルクを入れて、鈴子に差し出した。
「それで、何の話だったかね。確か“うわばみ”がどうのう、と」
「は、はい。私は子供の頃にうわばみに助けられたんです」
 鈴子はイチゴミルクを口に運びながら事のいきさつを猫髭に話した。
 そのことや、夜中の出来事を話すたびに恐怖で言葉が詰まり、手が震えるが、それを猫髭は口を挟まずじっと聞いていた。
「なるほど。事情はわかったよ」
 猫髭は研究室の棚から資料を取り出し、机の上に置いた。そこにはラルヴァについての情報がたくさん載っている。彼はそれを広げて鈴子に見せた。
「うわばみ。うわばみは大きな蛇のラルヴァだ。ただの巨大蛇と違うところはテレパスを使って人間と会話が可能で、知性が高いことだね。うわばみは現在でも一部地域では荒神の一種として信仰されている。そもそもうわばみという語源の由来は大蛇をあらわす『おろち』という言葉が変化したものだ。ヤマタノオロチは聞いたことがあるだろう」
「はい。あの八つの首があって、スサノオに退治されたやつですよね」
「そう、古代日本では蛇は神として崇められてきたようだ。『縁の下の白い蛇は守り神』という迷信があるように、日本は蛇に神性を見出すことがあったようだ。しかし、海外の影響を受け、蛇=邪悪という概念が根付くようになった。聖書では蛇はサタンを表しているということからもわかるだろう」
「はあ、そうですね……」
 そんなことを言われても鈴子はぽかんとするしかない。そんなうんちくを聞くためにここにやってきたのではないのだ。鈴子が困っていることに気づき、猫髭は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いやすまない。こんな話はどうでもいいね。うんちくを垂れるだけの学者は無能も同然さ」
「い、いえ。そんなことないですよ」
「ともかく、それで神と崇められていた蛇たちの一部は、邪悪と判断された怒りで、自らを荒神へと堕としてしまったのだ。それがうわばみと呼ばれるラルヴァさ。彼らは神性を取り戻そうと生贄や人柱を望む。人間のお嫁さんを貰おうとするのも、そういったことの一つさ」
「それで私なんかを……」
 鈴子はぞっとする。あんな巨大な蛇の嫁になるということは一体どんな地獄が待っているのだろうか。
 あのぬめぬめとした鱗と、爬虫類独特のおぞましい目玉を思い出し、鈴子は肩を震わせる。
 そんな鈴子を安心させるように、猫髭は優しい口調で言った。
「安心しなさい。私がキミを必ず助ける」
 幽霊のように生気の顔が、鈴子に今は頼もしく思えた。









 数時間後、日が沈みすっかり夜の闇が街を包む頃、二人は人気のない街はずれにやってきていた。
 そこは高台になっており、街の夜景がよく見える。背後には静かな水面に月が浮かぶ東京湾があった。
 潮風が鈴子の頬を撫でる。こんなところにやってきてどうするのだろうか。
 そして、そこには何故か大量の酒樽が置いてあった。
 何十個もの酒樽が、二人を囲んでいる。未成年の鈴子は、こんなにたくさんの酒樽を見たことは初めてであった。猫髭はあの後、業者に連絡をしてこの大量の酒樽を用意させたようであった。
「こんなにお酒を持ってきてどうするんですか猫髭博士」
「大酒飲みの人を俗に『うわばみ』と称することがあるだろう。その由来通りに、ラルヴァ化している大蛇はお酒を好むんだよ」
「それでうわばみのご機嫌でも窺うんですか?」
「まあ、見ていなよ。む、どうやら来たようだ……」
 しんっと辺りが静まりかえる。
 さっきまで聞こえていたカラスの鳴き声もぴたりと止まる。
 それと同時に、ズルズルと這う音が聞こえてくる。闇の中からそれは姿を現した。
「約束通りきたぞ」
 二つに分かれた長い舌を威嚇するようにチロチロと出し、ぎょろりとこっちを睨んでいるのは、あの大蛇うわばみであった。
 全長は十メートルほどあるであろう巨大蛇である。一体どこに身を隠し、この警戒の強い双葉区に侵入してきたはわからない。恐らくうわばみの神通力を使ったのだろう。知性を感じさせるその瞳は、ただの蛇のそれではない。
「うう……」
 十年ぶりに目の前に現れたそれに、鈴子は足をすくませる。
 そんな彼女の前に、猫髭は着物の裾を潮風になびかせて立ちふさがった。うわばみは不快そうに彼を睨みつけた。
「なんだその男は。婚姻の日に、ほかの男を連れてくるとは何を考えているのだ。それとも、貴様は我々の仲人にでもなるつもりか?」
「冗談。私はね、彼女の婚約者さ」
「!」
 鈴子は驚きのあまり絶句する。自分にそんな年上趣味はない。
 しかし、猫髭の表情に冗談めいたものは見えない。恐らく、これは猫髭の作戦なのだろうと鈴子は理解した。
「婚約者だと……? その娘は我が貰い受けるのだ」
「それならば私と勝負をしようじゃないかうわばみ。勝ったほうが彼女を嫁に貰える。どうだ?」
「ほざけ、なぜ我が人間と勝負事など……」
 うわばみは馬鹿にしたように鼻で笑った。しかし、猫髭はそれを意に介さず、にやりと笑みを浮かべる。
「勝つ自信がないのかいうわばみ。キミの言う人間風情に負けるかもしれないと思っているのかい?」
「ふざけるな!」
 シャーっとうわばみは大きな口を広げ、猫髭の目前まで顔を近付けた。だが猫髭は一歩も引かず、ただうわばみを睨みつけるだけだ。
「貴様如き、一瞬で全身の骨を砕いて丸呑みにしてやろうぞ」
「物騒だね。私は暴力は嫌いだ。あれで勝負をしようじゃないかうわばみ」
 そう言って、猫髭は後ろに大量に置かれている酒樽を指差した。それを見てうわばみは体をくねらせながら大笑いをした。
「ふははははは! 馬鹿か貴様は! いいだろう、その勝負受けて立とう。酒飲み対決と行こうか!」
 鈴子は心配になった。
 うわばみは伝説の通りの大酒飲みだ。そんな化け物相手に人間が酒飲み対決をして勝てる見込みなんてありはしない。
「ね、猫髭博士。お酒強いんですか……?」
 鈴子はそっと猫髭に耳打ちをする。しかし、猫髭はふるふると首を横に振った。
「いいや、まったく」
「そ、そんなぁ」
 鈴子は失望した。こんなことならもっと頼りになる人に頼めばよかった。
 だけどもう遅い。戦いの火ぶたは切って落とされたのだ。



「さあ始めるぞ人間。ふはははは!」
 うわばみはその頭で直接酒樽の蓋を砕き、顔を突っ込んでごくごくと飲んでいく。ほんの数十秒で、その酒樽の中身は空になってしまった。
 対して猫髭は槌で蓋を割り、盃に注いでそれを少しずつ飲んでいった。人間と蛇では、飲み方も、飲む速度もまったく違う。これでは勝負にはならない。このまま猫髭が負けてしまえば自分はうわばみのお嫁さんになるしかない。そんなのは真っ平ごめんだ。
「どうした人間。さっきまでの威勢はどこに行った。まだ一本目も飲みほしてもいないではないか」
 うわばみは余裕の表情でそう言った。うわばみの言う通り、猫髭の樽は全く減っていない。それどころかまだせいぜい二杯程度しか飲んでいない。それだけで猫髭の青白かった顔は真っ赤になり、ぼんやりとした目つきになっていた。
「なんの、ここからが本番だよ……ひっく……」
 ふらふらとしながら猫髭は三杯目を盃に注ぐ。その間にもううわばみは五本もの酒樽を飲み干し、空の酒樽をあちこちに放り出していた。
「おいおい人間。まさかこの我を酔わせ、眠らせたところで首を落とそうと言うつもりではないのか。そうだとしたらとんだ誤算だな。我が酔うことなどありえない。我はうわばみ、大酒飲みのうわばみだ。伝説上のヤマタノオロチのような失敗はありえんのだ!」
 うわばみのペースは落ちることがない。むしろ酔い潰れそうなのは猫髭のほうであった。目はとろんとし、今にも倒れそうだ。
「少し休憩しようかな……」
 そう言って猫髭は酒を飲むのを止め、着物の袖口から煙草とライターを取り出し、火をつけて咥え始めた。
「ちょっと一服」
「ちょっと一服、じゃないですよ博士!」
 鈴子は思わず叫んでしまう。この人は全然駄目だ。まったくの役立たずっぷりに呆れ返っていた。
「ふはははは。そいつのことは諦めろ。我は気分がいい。このまま総ての樽を飲みほしてくれよう」
 猫髭が煙草を吸ったり吐いたりしているうちに、どんどんと酒樽の数は減っていく。もうどうあがいても逆転は不可能であった。
「うーん、なんだぁこの酒は。さっきまでの酒と味が違うが……。まあいい、我は外来ものであろうとどんな酒でも酔うことはない。まとめて飲んでくれるわ!」
 うわばみは最後の酒樽を飲み始めた。
 鈴子はボロボロと涙を流した。もう終わりだ。うわばみの嫁になると言う現実が、目の前にやってきてしまったのだ。
 これまで人間の男の子とすらデートもしたこともないのに、今日からこんな蛇のお嫁さんにならなくてはいけない。それは十六歳の少女にとって、とても辛い事実であった。
「泣くのはまだ早いよ、津村くん」
 猫髭は、煙草をくゆらせながらそう言った。
 何を言っているんだこの人は。猫髭のせいで自分はもうおしまいになるというのに、泣くななんて言うのだろうか。鈴子は軽蔑の眼差しで猫髭を睨む。しかし、猫髭は不敵に笑うだけであった。
「どうした人間。もう諦めたか? 貴様の婚約者は、今から我の嫁になるのだ。悔しかろう。ふふふふ」
「まったく、蛇と言うのは所詮蛇だな。頭が悪い」
 猫髭は、なぜかうわばみを馬鹿にしたような口調でそう言った。それを受けたうわばみは怒り、その大きな口を広げて、猫髭を威嚇する。
「何を言うか人間が! 負け惜しみとは情けない。我が貴様を喰ってやろうぞ!」
「だから頭が悪いというのだ。そんな大口を開くなんて、こっちには好都合だ」
 その直後、猫髭は咥えていた煙草をうわばみの口めがけて放り投げた。
「!」
 火のついた煙草はすっぽりと大きなうわばみの中に入り、喉を通して体の中に入っていってしまった。
「な、何を――」
 そう言いかけた瞬間、うわばみの口から大きな火柱が舞い上がった。その火はうわばみの体内からあふれ出ていて、彼の身体を内部から焼いていった。
「あづいいいいいいいいい! なんだこれはああああああああああああああ!」
 うわばみは苦痛の叫びを上げて暴れまわった。大きな体をのたうちまわすが、火は彼の外側にも引火して燃え盛っていく。
「な、何をしたんですか博士!」
 驚いた鈴子は千鳥足になっている猫髭の肩を掴む。猫髭はげふーと酒くさいげっぷをしながらこう言った。
「奴さんが最後に飲んだのは、酒じゃあない。ガソリンさ」
 それを聞いて鈴子は理解した。あの煙草の火が、体内に入ったガソリンに引火したのだ。
 うわばみの鱗は槍や刀を弾くほどに堅い。しかし中から焼かれればタダでは済まない。
 なんという無茶苦茶。鈴子は唖然とした。
「騙したな人間! 貴様ら人間はいつもそうだ、平気で約束を破る! 裏切る! この外道!」
 とうとう力尽き、ぐったりとして燃えながらうわばみはそう言った。
 そんなうわばみを、猫髭は見下ろす。
「外道でもいいさ。可愛い学園の生徒を守るためならば、私は神だって殺す」
 そうしてうわばみの身体は焼け崩れ、炭に変わってしまった。




「見たまえ津村くん。これがうわばみの本体だ」
 焼け崩れたうわばみの体の中から、ひょいと猫髭は何かをつまみあげた。
 それは小さな蛇だ。
 いや、小さいというよりも、ごく普通サイズのアオダイショウである。さっきまでの大蛇と比べるととても小さく見えてしまう。その蛇はぐったりとしていた。
「それが、あの大きなうわばみのですか?」
「そうだ。焼かれたことによって神通力を失ったため、元のタダの蛇に戻ったのさ」
 猫髭はぐっと蛇の頭を掴んだ。このまま頭を潰してしまおうというのだろうか。
「あ、あの博士。殺しちゃうんですか……?」
「こいつは人に害をなす化け物だよ。同情の余地はない。キミだってこいつが憎いだろう」
 容赦のないような、恐ろしい形相で猫髭は言った。鈴子は押し黙る。確かにこのうわばみは恐ろしく、自分にとっては恐怖の対象でしかなかった。
 だけど――
「殺さないでください博士。確かにうわばみは怖かったですけど、彼が私を助けてくれたことに違いはないんです……だから!」
 このまま殺してしまうのは人として間違いな気がした。これではあまりにうわばみが哀れで、あまりに自分勝手な話だ。
 うわばみの言う通りに、恩義の無い最低な人間になってしまう。
 恐る恐る猫髭のほうを見ると、彼はにこりと爽やかに微笑んでいた。
「え?」
「よかった。キミならそう言うと思ったよ」
 猫髭はぽんっと鈴子の頭を撫でた。さっきまでの気迫はなく、鈴子はぽかんとしてしまう。
「私も無暗に殺生したくはない。それに蛇は神の使いだ。忘れさられ、神性を失い荒神に堕ちてもね。彼らは古代から私たち人間と歴史を歩んできたのだ」
 猫髭はそっとその蛇を鈴子に渡した。不思議と嫌悪感はない。
「神通力を失ったうわばみは、あと百年はあの大きさまで変化することはできないさ。もう人に手を出すような悪さもできない。だけど、彼はキミの地元の沼の主なのだろう。年に一度でいいからお供え物をあげるといい」
 そう言う猫髭の顔は、不気味で恐ろしくも、清々しい顔をしていたのであった。



 それから夏休みを利用して実家に帰った鈴子は、小さな祠を作りそこにうわばみを祭った。
 そして年に一回、お盆になったらここにお供え物を持ってこようと、心に決めた。
「あの時、沼に落ちたのを助けてくれてありがとうございましたうわばみ様。感謝しています」
 手を合わせ、お辞儀をして鈴子は沼を後にした。
 その後、すぐに双葉区に戻った鈴子はもう一度鈴を言おうと猫髭の研究室を訪れるために大学部へやってきていた。
『私はね、彼女の婚約者さ』
 あの時の猫髭の言葉を思い出し、胸が高まる。
 あれはうわばみを勝負に引きこむための方便とはわかっているものの、多感な乙女である鈴子にとっては心に残る言葉であった。
(年上の男の人も、いいかも……ちょっと顔が怖いけど……なんて)
 きゃーきゃー言いながら鈴子は研究棟の廊下を歩いていた。あの一件で鈴子の猫髭の印象は、だいぶいい方向に傾いているようである。
 そうしているうちに猫髭の研究室に辿りつく。
 扉に目を向けると、そこから若い女性がちょうど出てくるのが見えた。
(誰だろう?)
 大学生だろうか。その女性は清楚な白いワンピースに身を包み、長い髪を揺らしている。
 その女性はいかにもお嬢様と言った感じで、化粧気もない。
(うわぁ、すごい可愛い人だなぁ)
 鈴子より二、三歳ほど年上だろう。しかし美少女と表現してもいいくらいにあどけなくも綺麗な顔立ちをしていた。
 彼女は鈴子の視線に気づき、ぺこりと頭を下げた。釣られて鈴子も会釈を返す。
 そのままその女性は鈴子の横を通り過ぎ、去っていった。
(あんな人が大学部にいるんだぁ)
 驚きながら鈴子も猫髭の部屋に踏み込んでいった。
「やあ津村くんじゃないか」
 すると、弁当箱を取り出している猫髭が出迎えた。
「ああ博士。今からお昼なんですか? お邪魔でしたかね」
「いや、気にしないでくれたまえ」
 そう言って猫髭は弁当箱の蓋を開いた。
 その中身をみて鈴子は驚愕する。その弁当のごはんには、桜でんぶを使ってハートが描かれていたのだ。
「そ、それは?」
 どう見てもこれは愛妻弁当。しかもこっちが恥ずかしくなるような、凄まじい愛情を感じるものであった。
「ああ、これかい。これは妻が作ってくれたものなんだ。恥ずかしいからこういうのはいいっていうんだけど。まいっちゃうね」
 猫髭は似合わない照れ笑いを浮かべていた。それとは正反対に鈴子は固まる。
「は、博士……奥さんいるんですか……?」
「そりゃあいるさ。さっき妻が家に忘れた弁当を届けてきてくれたんだよ」
「え?」
「ちょうど今出て行ったところだからね、津村くんさっき廊下で会わなかったかい? あれが私の妻さ」
 鈴子はがっくりと項垂れた。こんな失恋するならうわばみに嫁入りをすればよかった、と。


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