【Back to You】


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   Back to You http://rano.jp/3612

   1

 気がついたらベンチで寝ていた。
 左足を投げ出し、シャツ一枚でしかも腹を出して眠っていた。
 何て格好だ! 重い頭をどうにかして持ち上げ、僕は上体を起こす。外は雨が降っていて、町全体が淡いブルーに染まっている。朝になっていた。
「あの」
 寝ぼけているせいで、喉から出てきた声は低くて小さなものだった。七十歳ぐらいのおじさんが、隣で朝刊に目を通していたのである。
「今、何時ですか?」
 おじさんは僕を見ることなく、朝刊を畳み、老眼鏡を外し、傘を片手に表に出てしまった。
 少しばかりムッときたが、こっちが悪いのだと思う。声は小さかったし、どこかこちらが無愛想だったし、何せマナーなど知ったことなしといった感じで豪快に寝ていたのだから。
 ここは新宿ではないのだ。自分だけがよければそれでいい、クールな都会でない。
 僕は田舎に帰ってきていた。


 おじさんが出て行って、自動ドアが閉まった音を聞き、僕は自分が今どこにいるのかを把握する。ガラスで仕切られたバスの待合室だった。
 新宿駅南口のバスターミナルから高速バスに乗り、田舎まで一直線で帰ってきた。車内が消灯し、大型トレーラーの危なっかしい走行音や、長大トンネルのオレンジ色のナトリウムランプが過ぎていくなか、僕はとてもそわそわしていて全く寝付くことができなかった。
 そうしているうちに諏訪湖サービスエリアを過ぎ、やっとうとうとしてきたところまで記憶している。恐らく田舎の駅前に到着したときに叩き起こされ、まるで酔っ払いのように町をさ迷い、この暖かい待合室にたどり着いたのだと思う。
 それで、いま何時なのだろう。僕は腕時計を見る。
 針は四時一分で停止していた。目を疑ったが、水に濡れた形跡を認めて納得に至る。僕の腕時計は防水加工もされていない安物であった。
「ぶえっくしょぉい!」
 派手なくしゃみ。鼻水まで垂れてくる。
 床に落ちていた上着はずぶぬれだし、髪の毛も湿って寝癖までついて滅茶苦茶だ。何やってんだかと呆れていると、町内放送のチャイムが鳴ったのを聞く。
「六時か」
 そこは出身者、小学生のころから変わっていない馴染みのあるチャイムを耳にし、時間を把握することができた。
 立ち上がってうんと背伸びをする。手で適当に頭髪を整え、鞄からタオルを一枚取り出そうかと思った。が、僕ははっとしてベンチを見返す。
 鞄が無い!
 帰省道具の詰まった鞄が見当たらない。あの中には財布も携帯も通帳も入っている。盗まれてしまったのか。
 さっきのおじさんは僕の鞄など持っていってない。だとしたら車内に置き忘れたか、ここで寝ているうちに誰かによって盗まれてしまったかである。特に東京だったら十中八九後者だろう。
「マジかよ」
 僕はひどくがっかりしてベンチに腰を落とした。実についてない。
 だが、もっと大切なことを忘れていた。僕は青ざめる。
 鞄なんてこの際どうでもいい。恐る恐る、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
 ・・・・・・ごつごつとした、硬い感触。
 ほっと胸を撫で下ろした。心の底から安心した。
 ポケットから取り出したガラス細工の香水瓶を、僕はじっと見つめる。

   2

 下宿先である、東京都の双葉島での出来事。
 大学一年生も無事に終了し、バイトに出てはアパートで寝る、だらしのない春休みを送っていた。
「帰省しよっかなぁ」
 夜道で自転車を漕ぎながらそう呟いた。ちょうど給料をもらったばかりなので、今回は贅沢に新幹線で帰ってやろうか。
 僕の出身地である長野県に帰るには、まとまった休暇を取らなくてはならない。果たしていつ休みを取ろうか、嫌な顔をする店長相手にどう言い訳を繰り広げようか、頭の中でカレンダーを眺めながら考えていたときである。
 道の脇で、何か黒い物体があるのを認めたのだ。しかもそれは人のようだ。住宅の塀を背にして座っており、路上にトランクを広げている。
 つい僕はブレーキを握ってしまった。
「見てく?」
 女の声だ。しかしその様子を目にした瞬間、僕は仰天する。
「とあるルートで仕入れたマジックアイテムよ。きっとあなたの役に立つわ」
 黒い衣装に身を包んだ若い女性。大きなとんがり帽子が目立ち、一目で「魔女」とわかる人物だ。
だが何に一番驚いたかというと、彼女が腰掛けているのは椅子ではなく、パンツ一丁の筋肉質な男性であったことだ。無骨なガスマスクをはめさせられているので素顔はうかがえない。彼女はこの男を四つんばいにして椅子代わりにしていた。さらに後方にも、同様の格好をした別の半裸の男がライトを掲げ、怪しい女と露店の品々を照らしている。
「気にしないでちょうだい。ツケを払ってもらってるだけだから」
 女は手を口元に寄せ、笑う。それは微笑むというよりも、口を歪めて不気味に笑う感じであった。毒々しい色に塗りたくられた長い爪。どこに感情が隠れているかもわからない、冷たい瞳。気になってしまい、僕は自転車を降りてしまった。
 なるほど、広げられている品々も怪しさ大爆発である。よくわからない水晶玉とか詳細不明の干からびた手首とか、そんなものばかりだ。
 その中で僕は、ある物に目を引かれた。
「あら、お目が高い」
 魔女もわざとらしく目を丸くし、その小瓶を手に取る。
 後ろの筋肉が気を利かせて、明かりを直射させてくれた。香水瓶であった。色は赤紫でルビーのようにも見えるが、宝石にしてはどす黒い印象を受ける。それでもオカルト臭漂うこの空間の中ではひときわ美しく、異彩を放っていたのだ。
「バラの香りが封じ込められた呪いの香水よ」
「ふーん」
 そう適当に相槌を打つ。
 綺麗で、素敵で、間違いなく良い商品だろう。でも、残念ながらそのようなプレゼントを贈ることのできる存在は、僕にはいない。そう、もうこの世には。
 そのあたりで話を切り上げて、立ち去ろうとしたときだった。
「死者の魂を具現化できる効果があるわ」
 魔女が僕にそう囁いたのだ。この瞬間、初見のときからピンと保っていた警戒心や懐疑心が霧散した。僕はまじまじと香水瓶を直視する。
「・・・・・・何だって?」
「魂がバラの香りによって姿を見せるの。自決した犯罪者を呼び出して、惨たらしい拷問をするのに使われたそうよ」
 死者を二度殺すための極悪非道なアイテムなの。魔女はアンニュイな調べで、香水にまつわる呪われた伝説を語る。
「つまり、死んだ人間と話したり触れたりできるってことだな」
「そういうことになるわ」
「誰でもOKなのか?」
「甘くないわよ坊や。相手も異能者じゃないとダメ。死者のアツィルトに反応するカラクリなの」
 ますます条件は整っている。口の中で自然にできた熱い固まりを、ぐっと飲み込む。
「いくら?」
「十万でどうかしら?」
「じゅ、十万・・・・・・」
「手に入れるの苦労したのよ。こればかりは下げられないわ」
 無意識のうちに、手がジャンパーのポケットに動いていた。ぱんぱんに膨らんだ財布が納まっている。決断は早かった。
「買うよ」
「お買い上げありがとうございます」
 大きなとんがり帽子が前後に動く。こちらに顔を向けたとき、黒のルージュが妖しく歪んだのを見た。変な人から変なものを買ってしまい不安になったが、その香水瓶は僕にとって、喉から手が出るほど欲しいものであった。十枚の万券と引き換えに魔女から瓶を受け取る。
 生まれて初めて香水瓶というものを手に取ったが、かなりごつごつとした手触りで重量感もある。中身がいっぱい詰まっているのだろうか。
「あんたも生き地獄を味わわせたい奴がいるの?」
 諭吉を数え終わった魔女がニヤリとしつつ、そんなことを聞いてきた。
「そんな目的じゃない。どうしても会いたい人がいる」
「誰なのよ」
「恋人だよ。死に別れた、ね」
 僕は高校時代に恋人を――春風を亡くした。
 共に魂源力を持ち、異能を持ち、一緒に双葉学園に進学することを約束した仲だった。それが僕らの運命なんだよと言い聞かせあってきた。ところが、春風は心臓病により急死してしまう。あまりにも突然の出来事で、今でもそれから立ち直れていない。
「やあねえ。そんなんなら売るんじゃなかったわ」
 魔女は厳しい表情に一変し、嫌悪感を露にしていた。タバコに火をつける。
 反論できない。恋人の死を今でも悲しみ、挙句の果てにアイテムを利用して魂を呼び寄せようとしているのだから。いつまでも「死」を受け入れられない、女々しい発想である。
「どうしてそれが再会と言えるのよ? ああ、やだやだ」
「何とでも言え。春風に会うためなら何でもしてやる」
「代償は大きいわよ。ま、あたしはもう知らないから」
 タバコの火を椅子に押し付ける。椅子の男は「――ッ!」とビクビク強烈な脊髄反射を見せていた。何て絶叫しているかは、マスクをしているので伝わってこない。
 それだけ見てから僕は小瓶を鞄に入れ、上機嫌でその場を去った。

   3

 バスの待合室を後にし、お昼時の静かな坂道を登る。雨が止んだのが出発のタイミングであった。
 鞄が盗まれてもこの香水瓶さえあればよかった。魔女から買ったマジックアイテム。たとえそれが悪魔の契約めいたものであっても、もう一度春風と会えるならそれで構わない。
 高台を登っていくにつれて、盆地に囲まれた市街地を見下ろせるようになってきた。田舎の盆地はかなり広く、傾斜もきついので本当ならバスに乗ってしまいたかったが、所持金がゼロではどうしようもない。
 そして坂道の頂上が見えてきた。そこから脇に逸れた場所に市営墓地はある。
 墓地の一帯に入ると子供の声が聞えてきた。見ると、風船を手にした男の子が僕めがけて走ってくる。向こう側には両親とベビーカーに乗った小さな妹がいて、時々彼らに手を振りながら突っ込んできた。
「おっと」
 僕が回避したことで、間一髪、正面衝突は避けられた。男の子は僕のことなどまさに眼中に無いといった調子で、子犬のようにはしゃいで走っていく。「元気な子だな」と僕は目を細める。
 そして、ようやくのことで僕は目的地に到着した。
 春風の墓は遺族が丁寧に管理しているようだ。供えたばかりの黄色い花に蝶が憩っている。
「帰ってきたよ、春風」
 僕は墓前に腰を落とし、うつむいてしまった。やはりこの場所にやってくると昔を思い出してしまう。春風との楽しい日々や幸せな日々。あまりにも唐突な別れ。
 あれから一転して、僕は運命というものや神様というものを憎んで生きてきた。隣にいるべき人がいない孤独な学園生活の中、頑としてこの悲劇を受け入れてこなかった。時には周囲の人間に呆れられたり叱られたりしてきた。「現実を受け入れなさい」と。
 でも、今日奇跡が起こる。夢にまで出てきた春風ともう一度会える。僕はポケットから例の香水瓶を取り出すと、そっと蓋を摘んだ。
 そのときであった。予定されていたシナリオのように曇り空から晴れ間が覗き、墓地に見事な虹がかかったのだ。目を奪われる。
「ミゾレくん、帰ってきたんだね。お帰りなさい・・・・・・」
 蓋に指先を触れたまま、僕は衝撃のあまり硬直する。
 その声を忘れない。絶対忘れたりしない。波打つ鼓動を感じながら、振り返る。
「はるか・・・・・・?」
「え? う、嘘」
 ふんわりとカールのかかった、鎖骨のあたりまである黒髪。小ぶりの鼻。そしてぱっちりと開いた両目。間違いなく春風だ。振り返ると僕の愛すべき春風がいた。
「ミゾレくん、私が見えるの?」
「春風ぁ!」
 もう一目で我慢の限界を超えてしまった。僕は感情のままに飛びついた。
 触れる。ぎゅっとできる。頭を撫でられる。
 こんなにも嬉しいことはない。
「こんなことってあるの、ミゾレくん」
「春風ぁ。会いたかったよ春風ぁ・・・・・・」
 どう声をかけようだとか、どんな表情をしようだとか、いくら暗いバスの車中で考えても結論に至らなかった。別離の時の張り裂けそうな悲しみ。寂しすぎる学園生活の辛さ。全てをさらけ出してぶちまける。家族連れの目があってもお構いなしに、僕は声を上げて大泣きをした。
 そして僕と死者である春風との、夢のようなデートは幕を開ける。


 春風とは自在に会話もできるし手も繋げる。彼女を知る人に出くわしたらきっと驚愕されるので、なるべく空いているショップやアーケードを選んで久方ぶりのお出かけを楽しんでいた。
 駅前のCDショップやちょっとしたおもちゃ屋さん、よく二人で暇を潰したコンビニ。
 一軒一軒回っていくたびに、春風と過ごした甘い日々が脳裏に蘇る。あまりにも久々すぎて涙ぐんでしまったところを、春風にくすっと微笑まれた。
 田舎の町は大きめの河川が横断しており、いくつもの橋が架かっている。草木の生い茂った橋の真下は、僕と春風だけの空間だった。
 コンクリートの橋げたに二人して寄りかかり、僕は春風に双葉学園での生活を語ってあげた。彼女は僕が双葉島で元気にやっていることをすごく喜んでくれた。けど、本当ならあの場所には春風もいなくてはならなかった。
「ちょっと、ミゾレくん!」
 僕は彼女の鎖骨にキスをし、右手で胸に触れていた。かなりびっくりさせられたが、すぐさま自分の口で春風の唇を塞いでしまう。
「見られちゃうよぉ」
 そう言われると確かに、近くの草むらに人影が見える。
「雨、上がってよかったね」
「昨日までどしゃぶりだったのに」
「また延期になるとやだからねぇ、今日で終わらせよう!」
 といったような会話をしながら、河川に落ちているゴミを拾っていた。清掃活動だろうか。グループ単位で行動し、賑やかに掃除をしている。
 僕はそれらにしばらく目を配ってから、羞恥で潤む春風の瞳に向き直った。
「平気だよ、気づかれてないから」
「恥ずかしいよ・・・・・・」
 それでも露になった柔らかな上半身に吸い付くと、春風はきゃんと鳴いて思い切り仰け反った。
 まさに夢のようだった。こうしてまた愛しい春風を抱けるのだから。

   4

 山へと続く県道を、僕らは歩いていた。隣の春風はとろんとした目をしている。
「眠いの?」
「誰のせいなのかな、まったくもう」
 じろっと睨みを利かせてきた。橋の下で、へとへとになるまで付き合わせたせいである。
 西日が強くなってきた。電柱や街頭の影が長く伸びている。灼熱の生物はまもなく山の向こうに沈み、僕たちの前から姿を消す。周囲の住宅からカレーの香りが漂ってきていた。
 ほとんど高校生時代の日常の再演だ。だから、すっかり浮かれきっていた僕は春風にこうきいてしまう。
「今何時?」
「私が時計持ってるわけないでしょ」
 沈んだ声。やってしまった。
 春風が死人だということを完全に忘れていた。影の伸びていない足元がひどく悲しい。
「ごめん、つい」
「ミゾレくん、私はもうこの世にはいないのよ」
 そんなことはわかりきってる事なのに。自分でもよくわかってるはずなのに。
 僕は拳を握り締め、わなわな震えてしまう。
 やっぱり認めたくない。今日のような、春風のいる日常こそが現実であるはずだった。心臓病で死んでしまった出来事のほうが、むしろただの悪夢であるようにしか思えない。それぐらい春風は可愛くて、いい匂いがして、中は完熟して熱かった。
「現実は甘くないんだよ?」
「わかってる!」
 怒鳴る。しかし渾身の一声も、隣を通過していった大型トラックがかき消してしまった。
 そうとも、わかっているさ。だから僕は、そろそろ一日のまとめに入らなければならない。
 気持ちの整理をつけて、春風としっかりお別れをするのである。そしてまた島に戻り、明日から一人ぼっちの生活を再スタートさせるのだ。魔女に香水瓶を見せてもらったとき、僕の頭はそこまで考えていた。いわばこの帰郷は、僕の気持ちに一区切りをつけるための大切な儀式なのだ。
 緑色に塗装されたスピーカーから、「遠き山に日は落ちて」のメロディが流れてきた。十八時の時報である。
「まるで夢のようだね」
 春風が言う。僕は「うん」と返す。
「でもこれは夢なんだよ?」
 今度は何も返せなかった。
 正直なところ、耐えられるかどうか自信が無い。
 もう一度会えるということは、もう一度死別するということだから。僕は二度目の悲劇を味わい、絶望に叩き落されなければならない。この儀式は甘い蜜のような幸福と、蜂の針がもたらす激痛を伴っている。
(くそっ・・・・・・!)
 これが魔女の言う「代償」なら、絶対に耐え切ってやる。
 そう、僕は春風の発言に対して唇を噛んでいた。


 春風のお墓がある山に僕らは戻っていた。
 その一端にはベンチのある休憩所があり、高台から夜景を見下ろせる。遠方にある教会がライトアップされており、オレンジ色に浮かび上がっていた。
「そう。そんないい人がいるのね」
 僕は香水瓶を売ってもらった、奇妙な魔女について話してあげた。マジックアイテムである秘密の香水瓶についても。
 時刻は二十一時。幸い墓地には時計が設置されているので時間がわかる。
 いつ香水の効果が切れて、春風が消滅してしまうかがずっと気がかりだった。香水瓶に触れたのは十二時頃の話だから、九時間近くが経過している。
 とても肝心なことを魔女からきき忘れていた。効果時間である。
 それはまる一日かもしれないし、下手したら五時間足らずかもしれなかった。十時間かもしれない。それだとしたら間もなく別れの時がやってくる。だから、僕は時間を細かく気にして行動していたのだ。
 だけどもう気にする必要はない。最後にこの高台にやってきて、寄り添って、夜景を眺めるまでが僕の考える「最後のデート」だった。春風と再び会えて、会話ができて、抱き合うことができて、もう一切の未練は無い。辛いことだけど、今日のことを糧にしてこれから一人で生きていこう。
「私にも見せて」
 春風がそう言ってきたので、僕は今回の筋書きの立役者である、ちょっぴり気色悪いルビーを彼女に手渡した。
「開けてもいいかな?」
「もちろん」
 やはり女の子は、こういう綺麗なガラス細工のものが気になるのだろうか。春風も一つは持っているのかな。彼女はそっとその蓋を開けた。
「こういうプレゼント、いっぱいしてあげたかった。なあ、春――」
「ミゾレくん」
 ある重要な核心に至ったときのような、強張った声。
 僕は口を止めて春風に向き直る。
「これ、香水入ってないよ」
「え?」
 そんな馬鹿な。
 春風から香水瓶を返してもらい、細かい蓋を指先で摘んで外す。立ち上がって、休憩所を照らしているたった一灯のみの明かりを頼りにし、中身を覗いた。
 何も入ってなかった。
「どういうことだ・・・・・・?」
 まさかあの魔女が僕をペテンにかけて、十万円を騙し取ったのか! いや、そう結論付けるにはまだ早い。冷静になろう。
 僕は今日のお昼にこの墓地で香水の力を行使し、春風の魂を可視化させた。現に春風は僕の隣で、うつむき加減にどこか一点を凝視し、黙りこくっている。
 通常ならありえない春風の復活が、実現している。これは何かしら異能が絡んでいないと説明がつかないのである。香水の効果は出ている。
「昼間のあのとき、バラの香りはしたか?」
「いいえ。全然しなかったわ」
 話が全然かみ合わない。過程から結果に至るまでみんな滅茶苦茶だ。放置しておくには気持ち悪い違和感が、僕の脳を支配していた。
 そして、僕は自分がずっと立ちっぱなしであることに気がつく。座って落ち着こうとしたところを、春風に止められた。
「ミゾレくん。足元見て」
 唐突な指示。
 言われたように足元を見てみるが、何も変わったところは無い。
「あなた、自分の影、どこにやったの?」
 そのとき僕は、「は」と上ずった声を出してしまった。
 それから恐る恐る視線を落とす。腹、膝、両足。
 ・・・・・・無い。自分の影が無い。
「ねえ、もしかしてミゾレくん、あなた」
 くくく。
 だからどうした?
 影が無いくらいで何の問題や支障があるっていうんだ。
 現実を直視したくない、頑なに受け入れたくないこの気持ち。いつだって春風の話題になったときはそんなわがままな気持ちになった。
 でも、それでもそれを見ないわけにはいかなかった。自然と僕の右腕は動いていて、視線も連動する。僕の腕時計は四時一分で停止している。
「ピッ」と、ガラス面に大きなひびが走った。


 高速道路の高架上は、無数のパトランプや怒鳴り声がけたたましく乱れ飛んでいる。
 僕はそこから外れたはるか遠くの山中で、仰向けになって倒れていた。胸部を低木の太い幹が貫通しており、穴から僕の命が大量に漏れ出ていっているのがわかる。
 四時一分、僕の乗車している高速バスが事故に巻き込まれた。諏訪湖サービスエリアを出て少し走ったところにある、傾斜のきつい急カーブにて、真横から速度違反の大型トレーラーが突っ込んできたのだ。
 バスは横から刺しこまれたままものすごい速度に到達し、側壁に突っ込み、車両も壁も大破した。破れた箇所から俺は放り出され、延長線上の山の中腹に叩きつけられたのである。
(何が・・・・・・あったんだ・・・・・・ぐふぅっ!)
 おびただしい量の吐血。まとまった熱と重みが、腹の上に乗る。
 サービスエリアを過ぎてうとうとしかけていたとき、とてつもない衝撃を受けた。振り回されているうちに、こうなっていた。
 自分の胸を貫いている、黒々とした木。それを目にして、僕は致命傷を負ったことを自覚する。いくら異能者とはいえ耐え切れるものではないだろう。すでに現場には救急隊が到着しているが、恐らくこんな場所で転がっている僕の存在には気がつくまい。
(春風・・・・・・!)
 次に頭に浮かんだのは、春風のことだった。ここで倒れたら、僕はこの土地に束縛されて動けなくなるかもしれない。そんなのはごめんだ。僕はズボンのポケットに手を突っ込む。
 魔女からもらった香水瓶を、僕は力を振り絞って取り出した。力の入らない、震える指先でなんとか蓋をつまみ、開けることができた。
 こうなったら意地だった。こんなところでくたばるわけにはいかないのである。
 僕は春風に会いに行くんだ。ここで死ぬのが運命ならば、逆らってやる!
(生きるんだ! 生き延びるんだ!)
 パトランプの赤い光も見えなくなり、視界が真っ白になったちょうどそのとき、バラのかぐわしい香りに僕は包まれた。

   5

「全部思い出したよ、春風」
 僕は取り戻した記憶の全てを、背後でうつむいている春風に明かした。
 僕はあの事故によって死んだ後、この香水瓶の力で具現化し、その足で帰郷してきたのだ。つまり、僕はもう死んでいた。
 朝の待合室で、おじさんに無視された件。
 全く僕に気付くことのない様子で、真正面から突っ込んできた男の子。
 橋げたで春風と交わっていても、誰にも気付かれなかった件。
 そして、僕の足元に影が無い理由。
 全部、僕も既にこの世の者ではないという証明だ。幽霊である春風と手を繋いだりできたのも、キスしたりできたのも、魂同士だからこそできたことだったのかもしれない。
「僕、どうしても春風に会いたかったんだ」
 でも、僕はこんな形で生涯を終えたことに未練は無い。遠い離れ小島での生活や、血の海の中でもがき苦しんだ果てに、やっと自分の求めていた人にたどり着けたのだから。
「いいんだ」
 だから精一杯の爽やかさで、僕は言ってやる。
「君に会いたくて、帰ってきたんだから」
「もう、バカ。別によかったんだよ? 君が新しい人生を送っても」
「ううん、これが僕らの運命なんだ。喜んで受け入れ――うぐぅッ!」
 急に強い胸焼けがしたと思ったら、今度はとてつもない不快な違和感を覚える
 熱い。胸がとても熱い。
 中身が茹だってドロドロに溶けそうなぐらい、熱い!
「どうしたの、ミゾレくん!」
 立っていられず、とうとう地面に膝を付いた。ウッと怒涛のように吐き気が上ってきて、すぐさま大量の血液を周囲に撒き散らす。「きゃあ!」と春風が悲鳴を上げた。
「春風、苦しい、助けて・・・・・・!」
 胸の中にマグマが詰まっているかのようだ。僕はごろごろ転がって苦しみながら、吐血を続ける。
 熱い。息ができない。苦しい。どうしてこんな生き地獄のような目に――。
 はっと思い至る。これが魔女の言った「代償」なのだ。
(バラの香りが封じ込められた呪いの香水よ)
 僕は浮かれるあまり、この香水がもたらす恐ろしい側面を全く見ようとしなかった。これは生き別れた人間ともう一度会える、素敵なアイテムではない。
 死者を二度殺すための、極悪非道なアイテムなのだ。
 さらにもっと恐ろしいIFの世界を、僕は垣間見てぞっとする。僕は本当ならこれを、春風に使わせる予定だった。
「ちくしょう、魔女め!」
 ヒーヒー間抜けな呼吸をしながら、僕は魔女を呪った。あいつは僕の春風への思いを見透かしていたかのように現われ、僕にとって魅惑的なものを売りつけた。それが、こんなひどいものであったなんて。
 生き地獄を存分に味わいながら、もがき苦しんで二度目の死を遂げる春風。なすすべもなくそれを見届け、自責の念と、魔女への憎悪によって発狂する自分自身。これがあのペテン師の描く悪趣味なシナリオだったのか! 絶対に許すものか、呪ってやる!
 そうして責任を転嫁して存分に呪っているうちに、次第に体力が失われていった。香水の効果が切れつつあるのを自然と理解する
 むなしくなってきた。逆ギレしている自分が馬鹿みたいだ。そう、元はといえば、寂しさのあまり大金はたいて、こんなアイテムに手を出した僕がいけないのだ・・・・・・。
「春風、ごめん。僕が弱いままだったから」
 血だらけだろう、涎まみれだろう、そんな無様な顔で僕は春風と向き合う。彼女はそっと手を取ってくれた。
「春風が生きてたらな、ってずっと思ってた。あんな別れが夢だったらなって、ずっと思ってた。そんなんだから僕は」
「ミゾレくん、いま私たちがここにいるのも、夢なの?」
 え、と僕は泣くのを止める。
 真実を知った春風はとても穏やかで優しくて、それでいて芯のある強い表情をしている。
「君は確かにここにいる。私もここにいる。これは夢じゃないんだよ」
「春風・・・・・・」
 そして彼女は、涙をいっぱい流してにっこり微笑んでくれた。
「帰ってきてくれて、ありがとう!」
 そう言ってくれたことで、僕の胸のうちにあった悪い感情は全て消え去った。
 帰郷の前から自信が持てなかった。アイテムの力を借りて春風に会おうとしている行為は、正しいのかと。そこで確かめ合う愛など、正しい二人の愛のかたちなのかと。
 どうせ夢で終わってしまう再会など偽りにしか過ぎないのか、と。
 だが真実は違った。僕は春風に会いたい一心で地獄から這い上がり、春風の魂へと至った。本当の意味で彼女との再会を遂げたのだ。
 僕は本当に、君のところに帰ってこられたんだ。




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