【Resonance】


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  Resonance(レゾナンス)
ラノで読む

     1

「真田《さなだ》さん、自殺しようとしたらしいね」
 休日をまたいで風邪を引き、五日ぶりに教室へやってきた黒江繭《くろえまゆ》に、お喋り好きな彼女は言った。
「昨日の日曜なんだけど、学生寮の屋上から飛び降りたらしいわ。同じ寮に住んでる子が夜中に電話して教えてくれたの」
 真田|小夜子《さよこ》。繭の大切な、繭が何万回生まれ変わっても決してなりえない、完璧な親友。
 話題が話題だからだろう、嬉々として噂話を集め吹聴する彼女らしからぬ、人目を気にするような声のトーンでささやいた。
「いま、学園の病院で治療を受けてて、まだ意識が回復してないんだって」
 彼女は続けて言った。
「黒江さんって、真田さんと|結構親しかったらしい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》じゃない。友達多かったみたいだけど、あんまり打ち明け話するような子じゃなかったらしいし、自殺の動機とか知らないの?」
 何気ない風に繭に訊いていたが、目は興奮気味に周りへ泳いでいた。今、この瞬間だけは、彼女は一流レポーターで、皆が知りたいが聞き辛いことを矢面に立って質問する、勇気ある役目を与えられていると思い込んでいる。
 彼女の言葉には又聞きした「らしい」ばかりなのに、その話題の根幹にある小夜子の行動には「自殺」ときたものだ。
 繭は席に座ったまま、長髪に片側だけ垂らした三つ編みを肩に払う仕草に紛れて見回した。期待に満ちた視線を隠さず向けていたクラスメイトたちは、一斉に顔をそ向けた。
「ねえ、どうなの」
 不愉快そうな表情を浮かべている繭に構わず、質問者代表のクラスメイトは訊いた。ずかずかと部屋に入り込んで来て、何か言えば貰えるとばかりに居直る乞食のようだった。
「知らない。わたし休んでたし。それに真田さんとはクラスが違うから、そこまで仲が良いわけじゃないよ」
 あくまで冷淡に、繭は嘘をついた。
 繭が抱いている小夜子への敬愛の念は、他人から見れば同性愛の情に見えるかもしれない。実際、目の前の彼女と繭を遠巻きに眺めているクラスメイトのほとんどはそう思っているのだろう。小夜子のことを知りたいから見ている、のではなく、同性に恋愛感情を持っている人間とはどのような姿をしているのか、どういう言動でどんな考え方をしているのか。まるで異生物《ラルヴア》を見るような視線を向けている。
 繭はそうではないと思っていても、人は往々にして、より刺激のある解釈を選ぶ。どれだけ言葉を積み重ねても、解釈するのは他人だ。目に見えない感情云々よりも、下卑《げび》た想像のしやすい汚《けがらわ》らわしい妄想を巡らせようとする。その歪んだ視線に、自分自身は耐えられても、それが小夜子に向けられることが、繭は何よりも許せなかった。
 小夜子は繭にとって、決して穢れてはいけない存在だった。
「へぇ、そうなんだ」声が上擦っていた。問い質す彼女自身が、自分の言葉に急かされていた。「一緒に発現講座を受けてるって聞いたから、何か悩んでたんじゃないかなって思ったんだけど」
 それまで平静を保っていた繭は、自分の頬がひくついたのを感じた。この子は嫌味で言ってるのではないだろうが、それまでの図々しさと相まって、彼女の言葉は繭の心に冷たく押し当てられた。
 発現講座とは、異能力を持つ素養がありながら未だその能力が開花していない生徒が学んだりする講座のことだ。繭と小夜子は互いに異能を持っていなかった。
 しかし発現講座とは名ばかりで、内情は異能力が発現していない生徒たちが放課後に集まってお喋りしたり、自習室の代わりに使ったり、同級生との待ち合わせまでの時間つぶしをする場所として教室が開放されている。
「わたしと真田さんは、暇つぶしで講座に出てるときに知り合っただけだもの。それに真田さんが異能がなくて悩んでるなんて話、聞いたことないよ」
 少なからず発現講座の参加者の中には、異能力がないことに本気で悩みを持っていたり、焦りを感じている生徒もいた。そういった子は、希望があれば専門家の面談を通じて、異能発露の可能性を探ったりするのだ。
「真田さんも言ってたけど、発現講座に通えば異能が持てるなんて誰も思ってないよ。異能が発現したって噂で聞いても、誰が発現したのか絶対にわかりっこないし。本当に講座のおかげで異能が生まれたのなら、学園側が大々的に宣伝するじゃない? それがないのは、やっぱり発現講座自体が、異能を持ってない生徒たちのガス抜きをする場所としてしか機能してない証拠だもの。
 誰も期待してないから、あそこに集まって本気で悩みを抱えてる子なんて滅多にいないよ。真田さんのことはきっと、異能のこととは別のことが関係あるんじゃないの」
 小夜子がかつて語っていたことを暗唱しながら、繭は一気に言った。
 小夜子は繭の知る同年代の誰よりも聡明で、正しかった。発現講座なんて嘘っぱちだ。繭は知っている。専門家の面談なんて、結局はただの保健室のカウンセリングと変わらなかったのだから。
 予鈴が鳴り、それから繭は誰とも口を利かなかった。

     2

 放課後、雨が降り始めた。
 ほとんど不意打ちな夕立ちだったが、元気な学園生や、自室のある寮が近い者は濡れネズミになりながら校庭を駆けてゆく。校門へ流れる人波にさからい、繭の足は自然と発現講座の教室がある棟へと向いていた。
 小夜子はいないとわかっていても、まだ心が彼女の不在を認めていなかった。きっと教室に行けば、あの知性に満ちた切れ長の眼、繭とは比べものにはならない艶やかな長髪、春雪のように淡白い喉、羽のように優しい声音の小夜子が隣にいるのだ。
 初めて出会ったとき、「繭」という字を迷いなく書いてみせ、気取ることなくその名を評価してくれた小夜子。
 彼女を真似て髪を伸ばし、夏の帰省明けに再会したときに見せたこともあった。嫌われてしまうのではないかと不安になったけれど、小夜子はそんなわたしを驚きこそしたが、避けることもせず、逆に喜んでくれた。
 ――繭の髪って、癖がなさそうだから、きっと長くすると綺麗に映えるんじゃないかって、ずっと思ってた。
 嬉しかった。二人の目に見えない部分が、自然と通いあっていることに。あの心が通い合った瞬間を思い出すと、今でも胸が温かくなる。
 そして、小夜子は息の触れる近さにまで寄ると、器用に髪を片側だけ編んでくれた。
 ――ほら、こうすると、綺麗に可愛さを足して可憐《かれん》になる。
 ちょっと不恰好でごめん、と苦笑いで謝っていたけれど、毛束をわけて編みこむ手つきは繭よりも上手だった。
 教室には誰もいなかった。出入り口のプレートには、臨時休講の札がかけられていた。
 普通教室と変わらない配置の机のあいだを通り抜け、繭は斜め後ろのいつもの窓際に着席した。小夜子はいなかった。誰かが浴槽の栓を抜いたかのように、繭の浸っていた幻想はそこになかった。
 椅子を引いた音のあとに、雨音だけが響いた。
 小夜子のいない教室、その現実を言い繕《つくろ》えない怖さが、繭の足元から這い上がってきて、足が震えた。抑えようとしても、全身を揺さぶり始めた恐怖のなかで、両腕は服の袖を掴むだけで精一杯だった。
「小夜子……」
 呟いてしまって、言葉がそのまま繭の魂まで引き抜いていく気がした。
 窓も、照明も、黒板も、ドアも、机も椅子も鞄も靴も制服も。まわりの何もかもが繭を取り囲んで渦巻いている。
 心だけを打ち据えていた痛みが、突然繭の頭に喰らいついた。鋭い痛みは肉食獣の牙のように、深く食い込み続ける。視界が暗やみ、前後不覚に陥る寸前、眩むような光が眼に突き刺さる。
「う……ああっ」
 頭をおさえ、それから逃れるように暴れた繭は椅子から転げ落ちた。机の足に膝を強《したた》かにぶつけたのにも構わず身を縮めた。しとしとと振る雨音ですら、繭の頭のなかで大反響を起こしていた。鼻をすすった音に気づいて、初めて自分が泣いていることを知った。
「小夜子……助けて」
 吐き出した声と同時に助けを求めて伸びた繭の指先が、小夜子の机の縁に触れた。
 ――繭。
 羽のように柔らかい優しい声が、耳よりも先に繭の心に届いた。声なき声……小夜子の声音だった。そうだと意識したとたん、頭痛は急速に引いていった。
 ――繭。
 幻聴なんかじゃない。声に引っ張られて、繭は起き上がった。
「小夜子が、呼んでる」
 じくじくとした痛みがまだこめかみに残っていた。けれど繭は気にしなかった。
 小夜子に会いに行こう。病院ではない。アテはあった。声が聞こえたとき、一瞬だけ脳裏に浮かんだ場所。小夜子の住んでいた寮室、彼女が飛び降りた屋上へ。
 小夜子の寮は繭の住む寮と同じ方向にあり、繭の寮より学園に近く建ててあったので、二人一緒に下校するときに道順を覚えていた。曇り空だったが、繭が外に出る頃にはすでに雨は上がっていた。
 寮の玄関口は広く、入ってすぐ隣に管理人室があったが、受付の小窓から覗いても人がいる様子はなかった。周辺が学生寮の立ち並ぶ地域である安心感もあってか、壁面がライトグレイの箱型マンションはがっちりした外観に反して繭はすんなりと入ることができた。
 繭はエレベーターの前まで来て、小夜子が何階に住んでいるのか知らないことに気づいた。寮の名簿か案内板でもないかと不在の管理人室に引き返すと、ちょうど繭の前で玄関の自動ドアが開いた。シャツを出して、スカートは短く折った格好の、化粧っ気の濃い、白に近い金髪の女子高生。学園には海外からの学生も多く暮らしていたけれど、目の前の女子生徒はただ髪染めしただけの日本人のようだった。
 普段なら関わりたくなさそうな相手だったが、繭は思いきって声をかけた。
「ちょっといいですか」
 女子高生は携帯を弄りながらで、繭のほうを見てもいなかった。もう一度声を出して、やっと振り向いてくれた。
「あン? あたし?」
 女子高生は手さげ鞄の輪っかを無理やり肩にかけていたので、繭に気づいたときに一つずり落ちた。
「この寮に住んでる方ですよね」
「そーだけど。何?」
「わたし、真田小夜子さんの部屋を探してるんです。どの階にあるか知りませんか」
「真田? ちょっと待って、あたしは一番上の八階住みなんだけど。たしかウチの階にはいなかったかなぁ」
 思ったより真面目な性格らしく、女子高生はぱたんと携帯を畳むと、うーんと唸って、カラフルなネイルをはめた爪で頬をかいた。「その子、何年生?」
「わたしと同じで、高等部二年です。あのっ、昨日ここの屋上から転落した子なんです」
「あー、昨日の飛び降りか。ごめーん、あたし昨日帰ってなかったから、そっちの話は全然詳しくないんだわ」
 すまなさそうに繭を見ると、今度は気まずそうに顔をそらした。肩にさげた鞄にじゃらじゃらと付いているストラップの束が揺れる。
「そうですか……引き止めてすみませんでした」
 繭は女子高生にお辞儀をすると、エレベーターに向かった。彼女もエレベーターを使うはずだったのに、女子高生は繭についてこないで一緒には乗らなかった。
 上から順に探して行くしかない。一人になって、忘れかけていた頭痛がぶり返してきた。
 静かなはずの昇降音に繭はよろめいて、エレベーターの大鏡《おおかがみ》にもたれかかった。
 ――どうしてわたしには、異能がないんだろう。
 小夜子の声と、断片的な幻影。幻は小夜子の真上を映していて、陰鬱《いんうつ》に垂れた頭《こうべ》はエレベーターの床を見つめていた。繭は左手でこぶしを握った。幻の中では、小夜子も同じように鞄の取っ手を握り締めていた。
「鞄……」
 発現講座の教室に置きっぱなしだった。そういえば繭は手ぶらだ。
 ドアベルの音と共にエレベーターの電光表示は七階を指した。玄関口で出会った女子高生は八階に住んでいて、そのフロアに小夜子はいないと言っていた。おかげで一階分だけ手間が省けたのはありがたかった。
 七階、六階、五階と順番に確かめて、次の四階に降り立つと、またあの頭痛が襲い、エレベーターのドアが開くと同時に幻も現れた。小夜子がここでエレベーターを降りて、通路を凍えるように肩をすくめて歩く姿が何度も見えた。繭の前では一度だって見せたことのない、暗く沈んだ表情《かお》で。あの真田小夜子が。これじゃまるで小夜子がわたしと同じみたいじゃない――。
 考えが口から漏れる手前で、黒江繭は足を止めた。扉の横に書かれた「403号室」という表札の下に小夜子の名前のプレートがかかっていた。ドアノブに手をかけようとして、離れたところから大声で呼び止められた。
「ちょっ、待ちなって!」
 あの女子高生が、ばたばたと通路を走ってやってきた。
「あんた、一体なにやろうとしてんのよ」
「なにって、小夜子の部屋に」
 当然のことを言っただけなのに、ひどく驚いたように女子高生は目を見開いた。
「本人がいないのに、部屋が開いてると思う?」
 レバーハンドルのノブを下ろすと、途中でガチャリと半端な位置で固まってしまった。
「そんな泣きそうな顔されたって開かないっつーに。……あんた、ホントにここの|自殺しようとした《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》子の友達?」
「小夜子は飛び降りなんてしません! あれは絶対に事故なんです!」
 かあっと、繭の肌の裏側を血が駆け巡った。
「だからわたしは、それを確かめるために小夜子に会いに」
 声を張り上げて、繭の周りの景色が暗くなった。急に全身が萎《な》えて、一瞬、軟体動物になったような錯覚があった。
「えッ、ちょっ、マジ!? 大丈夫?」
 軽く腕を掴まれただけで、繭は殴られたみたいに顔をしかめた。
「お昼食べたの?」
 心配そうな声に、繭はかくんと頷いて返した。原因は発現講座の教室で起こったあの頭痛からだと分かっていたけれど、それを説明するだけの気力は残っていなかった。
「少し休めば、治りますから」
 なんとかそれだけ言って、繭はドア向かいの通路壁にそのまま座りこんだ。
「あんた、この後どうするか決めてるの?」
 繭は道に迷った子供みたいに首を振った。
 女子高生は金髪をかきむしった。下から見上げると、反射の加減でぎらぎらとした銀色にも見える。かきむしりながら、小さく舌打ちした。面倒ごとに首を突っこんでしまった自分を叱っているようだった。女子高生は屈みこんで、繭と同じ目線の高さにあわせた。
「友達の部屋を見たら、納得して帰る?」
 黙って繭が頷くのを見て、女子高生立ち上がった。踵《きびす》を返して歩き始めると、肩越しに振り向いて言った。
「名前なに?」
「黒江です」
「クロエ? かーっ、イケてる名前じゃん。あたしは七尾《ななお》ね。七つの尻尾の」
 七尾は再び歩き出すとエレベーター乗り場に向かった。「ちゃんと待ってんのよ」
 ぼんやりとした頭で、繭は七尾の後姿を見送った。
 七尾が戻ってくるまでのあいだ、幻に見た小夜子を反芻《はんすう》していた。繭の憧れていた小夜子はあの中にはどこにも存在していなかった。自信に満ちた言葉の裏に、あんな弱音を吐く小夜子なんていない。伸びやかな立ち居振る舞いの影に、あんな怯えた姿などあってたまるもんか。
 弱気になってるんだ、わたし。小夜子が自殺しようとしたと聞かされて、そのことで発現講座のことを持ち出されて動揺して。自分の悩みをそのまま小夜子の事故と結び付けようとしている。わたしのバカな考えが、あんな弱々しい小夜子の幻を見せたんだ。
 小夜子が自殺を考えるはずない。もしかすると、小夜子の人気を妬《ねた》んだ誰かが、屋上に彼女を呼び出して突き落としたのかもしれない。それに原因は|人じゃなくてもいい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ラルヴァに襲われた可能性だって十分にある。
 繭はしゃにむに起き上がった。壁に手をつきながらだったが、さっきと比べれば、足どりもいくらか軽い。
「お待たせ」
 どこからか戻った七尾は、立ったばかりの繭を見て言った。
「おー、大丈夫になったみたいじゃん」
 それから右手に包むように隠していたものを、手品でも披露するように繭の前で開いてみせた。「これ、ここの部屋の鍵」
「どうやって取ってきたんですか」
「へへーん。コネとツテのタマモノってやつよ、クロエちゃん」
 鍵を持った七尾を先頭に、二人は小夜子の部屋にあがった。
「暗っ、カーテン閉め切ってやんの。そっち冷蔵庫の上あたりにスイッチない?」
 部屋は洋室だった。西日を避けるためか、ベランダのある窓には白い遮光カーテンが引いたままだった。繭が小型冷蔵庫の上にあった照明のスイッチを点けると、部屋全体に明かりが広がった。
「わーパンフレットに載ってそうな部屋だねこれ」
 七尾の言うとおり、寮のショールームにしても遜色《そんしょく》ないくらいきちんと片付けられている。
「見ていくなら早いとこ終わらせちゃって。気が済んだら閉めるから」
「わかりました」
 七尾はベッドに端に座って言うと、携帯電話に目を移してメールを打ち始めた。
「あと、友達だからって、部屋のもの勝手に持って帰ったりしないでね。それバレるとあたしがヤバいし」
「そんなことしません」
 机の上には本棚が取り付けてあり、教科書の他に、薄いファッション誌が入っている。小夜子がこういう普通の本を買っていたのは意外だった。勝手な印象だったが、マンガの月刊誌やテレビ雑誌の欠かせない繭と違って、小夜子は学術書や文芸誌を読む姿のほうがしっくりくる。
 そこで繭は、机と窓の間に空いたわずかなスペースに丸いランプが取り付けてあるのを見つけた。一般的な災害警報機を改良したラルヴァ警報機。学園島の治安上、頻繁に活躍する機会はないけれど、ラルヴァを認知し対策を練ることが可能な島内では、異能を持たない学生にとってこれは保険のようなものだ。繭の部屋にも、そういう用途でベッドの下に置いている道具がある。
 繭はまだメールを続けている七尾に訊いた。「ここの警報機は寮全体で取り付けてあるんですか?」
 ん、と鼻声で返した七尾がようやく携帯から顔をあげた。「あーそれ? ないない。あたしらみんなが必要ってワケじゃないし、自分で付けたんでしょ」
「七尾さんは異能を持ってるんですか」
「一応ね。だからラルヴァ対策してないってワケじゃないのよ。知っても知らなくても、どうせ周りには異能者がわんさかいるんだから勝手に処理してくれるだろうし」
 首をかしげて、繭の後ろの警報機を覗き見た。
「つーかそのタイプって、このあいだミスって鳴ったやつじゃん。あたしの階にも同じのつけてる子がいたみたいでさ、超うるさかったんだよなぁ」
 繭は頭が熱くなった。頭痛とは違う、黒目の裏から針を突かれるような痛み――
 ――怖い。
「なに、どうしたの」
 ベッドに座ったままの七尾のすぐ後ろに、震えている小夜子が見えた。すぐ横では警報機がけたたましく鳴り響いている。机と窓の隙間に設置された警報ランプから差す真っ赤な光が、壁を縦に割っている。小夜子は警告を発する赤い境界線から逃げるように、壁に背中をぴったりくっつけて膝を抱えていた。
「違う……」
 ――ラルヴァが怖い。
 壁を見つめる繭の目は焦点を結んでいない。驚いた七尾の声も届いていない。繭は、小夜子の幻から目を離せないでいた。
 ――わたしにも異能があれば。
「小夜子はそんな弱い人間なんかじゃ、ない……っ!!」
 ふるふるとかぶりを振った繭の視界の隅に、ゴミ箱に投げ入れてあった封筒が目に入った。
『発現講座 第3回 異能力判定についての経過報告 真田小夜子』
 繭は見てはいけないものを見てしまったみたいに、右手で顔を覆った。
 思い出してしまう。振り切ったはずの記憶が。蓋をして、腐りかけていたものが突然暴発したように、繭の頭のなかで繰り返される。
『発現講座 第8回 異能力判定についての最終報告 黒江繭』 
 専門用語ばかりでやたらと長い解説に、うやむやにしたい意思が透けて見える希望的観測な言葉で飾られた文面。だが、いくら異能力を得るだけの素養を持ち合わせていようと、思春期を過ぎれば異能力発現の可能性は著《いちじる》しく低下する。幸いあなたは若いから早々に別の道を探し見切りをつけろと、レポートには遠まわしにそう締めくくられていた。
 去年の冬、繭がそれを受け取ったとき、ただ普通で取り得がないと思っていた自分に唯一残っていた華々しい未来の扉が、高い軋みをたてながら閉ざされていく音が、はっきり聞こえた。
 それから進級するまでの一ヶ月のあいだ、繭は毎日を無気力に過ごした。時間が少しずつあのときの自分から遠ざかってきてようやく学園に通えるようになると、繭は今までの自分を清算するために、講座履修の辞退書を鞄に入れて発現講座へ行った。
 そして、真田小夜子に出会った。
 ――隣座ってもいいですか? 二年の真田です。同学年のかたですよね。学年集会で顔を見た気がするから。良かった、講座に出るの初めてで少し不安だったんです。わたしは時間潰しにでも受講しようかと思って。えっと、あなたの名前は――
 小夜子も諦めきれなかったのだろうか。あらゆる可能性から零れ落ちて、最後にすがった場所だから。気丈に振舞っていても、ずっと不安だったのか。繭と一緒で、異能を持てるはずなのにいつまでもその力が開花しない自分を卑下《ひげ》していたのか。
「すごい顔青いよ。ていうかむしろ土色だし、マジでヤバいんじゃないの」
 七尾が近づいてくる。彼女が繭とゴミ箱を遮るように立ち入ってきて、半《なか》ば自分の体の軸を見失いかけていた繭は、かきわけるように押しのけた。「どいてください」
「痛っ、何なのよもー」
 倒れてはだめだ。何度目かの幻聴と幻影で、繭には判ったことがある。この頭痛は同時に全身の感覚が鋭敏になる。蟲の群れが羽をこすりながら這い寄ってくるような音を背後に感じて、ちらりと窓の外を見ると、塞《ふさ》ぎこんだ雲間から雨が降り始めていた。
 小夜子に会うためには封筒《あれ》に触れなければならない。でないと繭は、この先ずっと小夜子と向き合えないような気がした。もう、今までの関係でいられなくなる予感もあった。
 ベランダを打つ薄いにわか雨の音は繭の耳に伝わり、それが弾雨《だんう》に変貌して頭の中を穴だらけにしてゆく。
 黒江繭は封筒を手にした瞬間、ぶつりと意識が途切れた。彼女が最後に見た|現実の映像《ヽヽヽヽヽ》は、封筒の中身が空だということだった。

     3

 目を開けると眩しいくらい白い天井と照明が視界いっぱいに広がった。まどろみから醒めるの待ちながら、繭は自分が病室のベッドで横になっていることを理解した。頭の芯に、まだ鈍い痛みが残っていた。もぞもぞと布団を剥ぐと、左腕には点滴がつけられていて、液体が油時計みたいに間延びしてチューブに伝っている。
「あ、起きたんだ」
 隣にかけてあった仕切りのカーテンが開いた。
「小夜子……?」
 繭の呼びかけに真田小夜子は弱々しく笑って応えた。いつもきれいに流している長い黒髪を横切るように頭に包帯を巻いて、右足は骨折したのか吊るされていた。顔色は良かったが、それでも表情はやつれて見えた。
「夕方頃に目が覚めて。気がついたらこんな感じ」
 肩をすくめた小夜子はベッドのスイッチを使って静かに体を起こした。おとなしめなピンクのパジャマはサイズが大きかったのか、左肩が少しはだけている。
「びっくりした。わたしのいる病室に運ばれてきたのが繭だったなんて」
「びっくりしたのはお互いさまだよ」
 繭がそう言うと、小夜子の顔がこわばった。それから、ごめんと細い声で詫びた。
「でも、わたしも小夜子に謝らなくちゃいけない」
 つとめて真面目な表情をつくって繭は言った。
「部屋に勝手に入ったの。寮の人に頼んで」
「知ってる。七尾さんでしょう? あの人がメールで繭のことを訊いてきたから、わたしからお願いして開けてもらったんだよ」
 そういえば七尾の姿が見えなかった。おそらく繭のために救急車を呼んでくれたのは彼女だろう。
「さっきまで一緒に居たんだけど。七尾さん、夜からバイトが入ってるからってさっき帰ったの」
「そうなんだ」
 七尾のことを話す小夜子の言葉には、親しみがこもっていた。不思議そうに聞いていた繭に気づいて、小夜子が付け足した。
「あの人、わたしたちからするととっつき辛い見た目をしてるけど、ああ見えて根は面倒見の良い人だから、寮のなかでも顔が広いの」
 繭は率直な感想を言った。「親切な人だよね」
「うん」
 小夜子はそれだけ言うと目を伏せた。授業中に突然朗読の指名されてどこから読み始めたらいいのか分からなくなったみたいに、その瞳は左右に振れながら病室の隅々をさまよって、行頭の言葉を探していた。繭から話の水を向けたいと思ったが、どうしても小夜子の口から聞きたかった。そして、小夜子もどかしく感じているこの静寂を、繭は少しでいいから共有していたかった。
「異能が発現したの、昨日からなんだ。超能力系で、それから屋上で物を動かしてみたり浮かしたりいろいろ試して――」
 小夜子は目を細めて一息笑うと続けた。
「文字通り舞い上がってたんだよね。ハイになって、異能を自分に向けて使ってみたら面白いくらい簡単に体が浮いて、気がついたら手摺りの向こうまで飛んで行って、そこで力の底が尽きてまっさかさま。幸い地面にぶつかる直前に力が戻って何とか死ななかったみたいだけど。頭打って足折って、おまけに意識不明。異能が発現したことを誰にも言ってなかったから、当然わたしのやってたことは自殺行為にしか見えないよね」
「仕方ないよ。小夜子だって嬉しかったんでしょ?」
 あのとき繭が触れた封筒には、経過報告の書類に目を輝かせている小夜子が映っていた。そしてその書類を小夜子が大事に机の引き出しに閉まっていたのも知っている。
「すぐにでも繭に報せるべきだった」区切って、間違いに気づいたようにすぐに付け加えた。「別に怪我の保険のためにって意味じゃないよ。でも、風邪引いてるから起こしちゃ悪いって、自分のなかで言い訳して。でも本当は、繭に異能者になったことをどうやって伝えたらいいか分からなくて。だってそうじゃない、異能がなくても気にしてない優等生のフリしてたのに、能力が発現したとたん手のひら返してバカみたいにはしゃいで」
 口のなかに湧き出した苦味を吐き出すように、小夜子は呟いた。
「それに、わたしより繭のほうがずっと異能に憧れてたのに」
 小夜子は自分の偽る虚像に、繭が依存していたことをうすうす気づいていたのだろう。けれど、繭を大切に思っていてくれたからこそ、持たなくてもいい負担を心に置いたまま演じ続け、異能を得たときも悩んでくれた。
「ありがとね」小夜子への感謝の言葉は、自然とこぼれ出た。
「感謝されることなんて、なんにもしてない」
「違うわ。だってわたしも小夜子のおかげで異能者になったもの」
 点滴を受けていない右手をあげて、小夜子に振ってみせた。
「繭にも異能が?」
「うん、まだちょっとはっきりしないけど」
 繭はベッドの側面を手探りして、スイッチを見つけると小夜子と同じ目線になるように起き上がった。
「ねえ、小夜子」
 繭は遊びに誘うような口調で言った。
「わたしの知らない、小夜子の思い出を頭のなかに思い浮かべて。そうしたら、手を握って。わたしが異能者になってたなら、小夜子の見ている記憶が見えるはずだから」
 こくんと頷き、華奢《きゃしゃ》な腕を胸に引き寄せて、小夜子は目を閉じた。肩を小さく上下させ、まるで自分のことみたいに、見開いた瞳には緊張の色を湛《たた》えていた。
 それを見た繭は、冗談めかして言ってベッドの上から手を差し伸ばした。「お手をどうぞ、お姫様」
 小夜子は一瞬びっくりした顔をして、それから吹き出した。繭も照れくさくなって、結局二人揃って笑った。
 ひとしきり笑っていると、繭の手にひらに小夜子の指が触れた。今までで一番大人っぽい表情を浮かべて、本当に童話のヒロインのように、たおやかな動きで繭の手を握った。繭はそっと握り返した。
 そして繭は、繋いだ手の温もりを感じながら、親友の描いた記憶が自分に共鳴する音を聴いた。






 -了-


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