【春部里衣のどうにも落ち着かない年末】


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 冬休みの帰省のため、駅へと歩いていたどうにも冴えない青年、召屋正行《めしやまさゆき》は、今後の人生を左右するであろう大事な岐路に立っていた。

①この場から逃げる
②警官をとりあえず呼ぶ
③見なかったことにする
④腹を決めて現実に向かう

(人生にはリセットは利かない……かといって④の立ち向かってブチ殺されるのもいかがなものかとは思うしな)
 刹那とも思える一瞬の逡巡の結果、目の前にいる、いかにもおかしな組み合わせのカップル(?)をまじまじと見つめながら、召屋は一つの選択肢を選ぶことにした。


「お…お、おまわりさぁあぁぁぁあぁぁあああん!! ここに変質者がいばぶべぇ――っ!?」
 全ての言葉を話しつくす前に、召屋の身体が遥か彼方へと吹き飛ばされ、ボーリングよろしく、八百屋の棚に並んだ野菜を盛大に弾き飛ばしていく。
「まったく、失礼だな。道を聞こうとしただけだぞ……」
 右の拳を眼前に固く握り締めながら、精悍でありながらもどこかに影のある小柄な老齢の男性が呟く。
「おやおやぁ、駄目ですよぉ、あ《・》な《・》た《・》。折角息子《・・・・》の通ってる学校にきたんですから。事件を起しちゃうと、またあの子に嫌われちゃいますよぉ」
 男の横にいる更に小柄な女性が優しくのんびり緊張感もなくなだめていた。
「おう。悪かったなあ、坊主。大丈夫かい?」
「大丈夫なわけねーだろっっっ!!」
 野菜の山の中から掻き分けるように起き上がりながら無駄に身長がある青年が怒鳴りつける。
「なんだよ、本当に大丈夫そうじゃねえか」
 殴られた頬を摩りながら間髪入れず起き上がった召屋を見て、男は周囲に鳴り響くような大声で笑い始める。商店街の店のガラスがビリビリと震える。
「一応、この手の暴力沙汰には慣れてるんで。というか、そっちのお嬢ちゃんは今このちっさいおっさんのことを“あなた”って言わなかったか?」
「小さい言うな」
「ええ、言いましたよ。それが何か?」
 今の日本には珍しい和服姿の少女は、自分の言動に疑問を持っていないのであろう軽く首を傾げる。
 その小さく可愛らしい動きに、思わず召屋は頬を染めてしまう。
 そして、その頬の高揚と目の前にいるアンバランスなカップルの姿でようやく気がつく。自分が絶対確実完璧に厄介な人たちと出会ってしまったことに。自分にはどうにも相性が悪い人物と遭ってしまった事に。
「ところで坊主。うちんとこの娘《・》のいるマンションを知りたいんだけどよ」
「はぁ……」
「そうなんですよ。息《・》子《・》のマンションがどうにも分からなくて」
「へぇ……」
「で、その探してる人って双子とかじゃないですよねえ?」
「何言ってんだ坊主? 俺は娘《・》のことを聞いてるんだぞ」
「そうですよぉ。息《・》子《・》のことをお聞きしてるんですよぉ?」
 目つきの悪そうな目鼻立ちのはっきりとした異国の人らしい小柄なじじいと、どう見ても不釣合いな菊人形みたいな幼女、でもってそいつらは夫婦で、息子だ娘だ言いやがる。こりゃどう考えてもあいつの関係者だというか両親だろ? だからってどうする? この場から逃げてどうにかなるのか? それは否だ。確実に俺は逃げても逃げなくてもこの厄介ごとに巻き込まれる。それは間違いない。というか、逃げた方が肉体的なダメージは大きいだろう。さっきも殴られたばっかりだし……。そう考えればやっぱり俺はこの人たちをあいつの場所に紹介するしかないんだろう。なんにせよ、幸いにも俺はあいつとの関係性は特にないワケだし問題ないよな。純粋に公的な関係だ。よし、これは好青年の振りをして、さっさと逃げるに限る。
 なんてことを召屋はコンマ一ミリ秒で思考しながら、無難な反応をすることにした。
「お子さんってもしかして有葉《あるは》さんのこと、ですか?」
「なんだぁ? お前もあいつを狙ってるのか?」
「あらあらあら、千乃《ちの》ちゃんのお知り合いなのぉ?」
 予想通りの反応というか該当する名前の登場に召屋は腹を決めることにした。
「いやまさかあ。でもちょっとした知り合いではあるんで道順を紹介しますよお。あははー(棒読み)」
「一緒に案内しろよ」
「え!?」
 間髪入れず、ちいさいおっさんが召屋の前に立ち塞がると、恐喝するような目つきでそう強要する。
「ここら辺は不案内でな、案内してくれると助かるんだわ」
「そうですねぇ」
 隣に立つ市松人形のような幼女が同意する。
「いや別に道に迷うような場所じゃないんですけどね。そこの通りを……」
「俺は案内しろと言ったんだ」
「え? あのそりゃ……で、ですよねー? じゃじゃじゃじゃあ、一応案内するんでその前に電話していいですかねえ」
「いいですよぉ」
「手早く済ませろよ」
 召屋正行は幸せな年末年始は送れないのかもしれないと自分なりに納得しながら、にこやかに自分の懐に厄介ごとを持ち込んできたであろう二人を視線の外へ追いやると、実家への電話番号のボタンを押すことにした(ゴメン香奈《かな》、お兄ちゃんは今日は帰れないよ)。



  春部里衣の どうにも 落ち着かない 年末



「ねえねえー、冬休みは実家に帰らなくていいのぉ?」
 とあるマンションの一室にあるキッチン。どう見ても小学生にしか見えない少女が、隣でサトイモの皮を剥いているショートカットの女性に声をかけた。
「えー? だって帰ったら帰ったであの人たちと会わなきゃいけないでしょ? 正直、ちょっと……というかガチで苦手なのよねー千乃のおばさん」
「春ちゃん、酷いよ酷いよー。パパもママもいっつも凄く優しいよー!!」
 貴方にはね……。そんな言葉をおくびにも出さず、おせち料理を作り続ける女性は、隣で小さいながらも踏み台に乗り精一杯背伸びして彼女の料理の手伝いをしている少女に微笑み、空いていた手で彼女の頭を優しく撫でる。
 こんなささやかな幸せがずっと続けばいいのに――そんな思いをぶち壊すように突然にインターホンが鳴り響いた。
「はいははーい。宅急便かしら?」などと言いながらのん気にエプロンで濡れた手を拭きつつショートカットの少女がインターホンの応答のボタンを押した。
 一瞬のタイムラグの後、モニター一杯に相手の顔が現れる。
『よ、よう……』
 モニターに写った男の顔を理解し不快な表情になる。
 それはヘラヘラと笑う薄っぺらでどうにも冴えない見覚えのある顔だった。それにしてはねっとりとした脂分の多い汗まみれで、安っぽさは一切なかったが。
 だが、少女はそれを特別理解せず、淡々と答えることにした。
「なんでアンタがいるのよ? アンタはカワイイカワイイ妹のいる実家に帰るんでしょう」
『で、ですよねー。でも世の中にはそういうたんじゅんあ……『おい! いい加減こっちにモニターをこっちによこしやがれ』いやちっと待てって『あらやだ、あなた、脅迫しちゃいけませんよぉ』だからちょっとぉ??』
 瞬間、召屋の顔が弾き出されて、モニター一杯に春部が知ってる人物二人の顔が大写しになる。
 そして、その直後……。
「えっとぉ……xchybっ、。オxghjkl、ンvxczcvbんmvbん。んb、mんあるぱちーのがーっ!!」
 声にならない奇声を上げながら即座に彼女は玄関へとダッシュし、鍵をかけ、更にどこからか持ち出したのか、釘と金槌と木の板を手に持ち、一心不乱に玄関の戸に打ちつけ始める。
「おちついてー!! 落ち着いてー! 春ちゃん」
 突然の奇怪な行動を始め、それがなんらかの異常事態なことに何か気がついたのか、千乃《ちの》とよばれた幼女が彼女に駆け寄りそれを止めさせようとする。
「春ちゃん、春ちゃん、落ち着いて!! いい? 呼吸のタイミングは『ひーひーふー』だよ? 『ひーひーふー』分かる?」
 とんでもなく見当違いのアドバイスをしながら、幼女は少女を落ち着かせようとする。
「ひーひーふー… ひーひーふー…。……………有難う千乃。ようやく落ち着いたわ」
「よかったあ、春ちゃん!!」
「うん!!」
 二人の少女は熱く強く抱き合っていた。感動のシーンである。おそらく邦画なら仰々しいBGMが流れることであろう。
 まあ、なんにせよ、よくは分からないが問題を乗り越えた二人にとってはかなりの全米感涙のシーンであったことには間違いない。
「なぁーにやってんだよ?」
 気持ちの良いほどに水を差す台詞が二人に浴びせられた。感動的なシーンはすっかりぶち壊しである。
 ガチャリと鍵を回す音が聞こえ、玄関が開く。
 抱きしめ合った二人が見上げると、壮年の男と無駄に上背のある青年、そしてその二人どちらとも不釣合いな市松人形のような“幼女”がそこに立っていた。
「あらやだ? 二人はそんな関係だったのかしら?」
 ある意味とんでもない状況に反応できずうろたえる壮年の男をよそに、和服幼女の瞳が優しく嬉しそうに鈍く輝いた。


 そんなこんなで有葉千乃《あるはちの》の住むマンションの一室であるリビングルームでは、小さなちゃぶ台を挟んで、おっさん&和服幼女と召屋を含めた三人が正座で座っていた。
 ちなみにこの五人の中でも幼女と言っていい二人はにこやかだったが、他の三人はどうにも顔が強張っている。特に召屋とショートヘアの少女は居心地が悪いのか、それこそ汗のワカメ酒が出来そうなほどに溢れ太ももにねっとりとした油汗がたれ落ちている。
「もう帰っていいスかねえ? このままだと新幹線キャンセルしないといけないんですよ
?」
 張り詰めた空間に我慢できなかったのか、三人揃って正座させられている一人である召屋が愛想笑いをしながら口火を開く。
「あらやだ、召屋くん。召屋君の実家は横浜でしょぉ? なら新幹線の必要はないわよねえ?」
 和服幼女がにこやかにかつ即座に否定する。
「なんで俺の実家のこと知ってんスか?」
「息子の交友関係は全部お見通しよぉ」
「見かけによらずゲスいですね」
「てめっ、俺のかみさんを罵倒するのかっ!?」
「だぁかぁら、それをかみさんいうアンタもおかしいだろっ? あんたらの家はどんだけおかしいんだよっ!!」
 まあ、誰にでも分かる心の叫びではある。
 父親はマフィアの親分のような強面外国人、母親はそれとは真逆どころか明後日の方向に突き抜けた和風美人じゃなくて和風幼女である。でもって、その間に生まれた子供は見た目は幼女中身も幼女だけど男というどうにもトチ狂った馬鹿である。
 常識のある人間が突っ込まないわけがない。いやまあこんな人間関係には一ミリ足りとも突っ込みたくはないが……。
「おい坊主、若くて綺麗な俺の嫁を褒めて何が悪い?」
「えぇぇぇぇ~っ?」
 殺気交じりの視線と台詞を浴びせかけられ、『そっちかよ!? というかそこは綺麗じゃなくて可愛いじゃねえの?』という突っ込みは横に置いといて、召屋はこの場にいるおそらく自分と同じ立場であろうショートカットの少女に救援の視線を送る。
(おい、テメエ春部《はるべ》なんとかしろ。でないと俺が死ぬ!!)
 珍しくそんな切実にな思いに答えようとしたのか、はたまたこの気まずい空間に辟易したのか、先ほどから下を向き沈黙を守っているショートカットの少女、すなわち春部は逡巡しながらも口を開く。
「…あ、うん。相変わらず若作りですよねー。おばさん。なんて、あははははは……」
「ふうん―――」
 和服幼女の瞳が殺意の波動を周囲に放ち、更に空気を凍りつかせる。
「だ・か・らぁ―――――、おばさんってのはやめてって、いっっっつも言ってるじゃない、里衣《りい》ちゃん? あとね、これは若作りじゃないの。純粋に若いの? 分かってるわよねぇ? ねぇ??」
 微笑みを絶やさず、抑揚のない発音とは裏腹に、その言葉は劣化ウランのように酷く重くドスが効いている。まるでその場の空間を圧倒し、沈黙するのを強制するかのようだ。どうも若作りと言われるのは不本意らしい。
「は、はははははいーーっ。す、すいませんでしたー!!」
「別ればいいのよ里衣ちゃん。ところで、あなたは相変わらず女性としてのたしなみがなっていないようですね? なんですかそのスカートの短さは? それと大和撫子たるもの日焼けは厳禁ですよ? 髪の毛も随分と茶色いですねすねぇ? それは染めていらっしゃるの?」
「いや、あの、んとそのえとう~んとですねぇ……」
 矢継ぎ早に繰り出される質問に、春部は思わず口ごもる。
 そんな姿を見て、召屋は一人関心する。
 彼女のこんな弱気な姿を見たことがなかったからだ。いや実際には一度だけ見たことはあったが、それにしても千乃と彼女に関する重要なことであり、それ以外、つまりは日常的には高圧的で傲慢で自分勝手で奔放、それが召屋が彼女に持つイメージだった。これほどまでに苦手意識を持つ人物がいることなど露ほども思ってもいなかった。
 なんだ、こいつも意外と可愛いところあるじゃねえか? 一瞬ではあるがそう思う召屋。もちろん、それは気の迷いであると即座に思い直すことも忘れなかったが。


『はあぁぁぁ? こんな時期に電話で許可を取ってるんじゃねーよ? 適当に使えばいいろだろ? 空気読めや』などと体育委員長である討状《うちじょう》に電話口で散々罵倒されながら、召屋は体育館の単独使用許可を得ると、携帯電話を閉じ、目の前にいる四人に向かってこう言い放つ。
「一応……ですけど、体育館の許可は出ましたよ。でもってあんたらは一体なにをしたいんですか? それよりもう俺帰っていいですよね?」
 長々と続いた正座のおかげですっかり痺れた両足を擦りながら、嫌味ったらしく召屋は呟いた。
「いいわけねえだろ?」
 小さいおっさんが断固として否定する。
「なんでだよ?」
「馬っ鹿だなあ、おめぇ。折角の面白いイベントだぞ? 観ないと色々な意味で損するぞ」
「別にそんなもんは見たくないですよ」
「そうでもねえって」
 バンバンと召屋の背中を叩きながら、有葉父は寝室に繋がる戸の方をアゴで示唆する。
 タイミングよく、戸が開き、和服にたすきを巻き、なぎなたを持った幼女が現れる。その姿はまるで大河ドラマに出てくる侍女のようである。
 もちろんその幼女とは有葉千乃の母親だ。召屋が小さいおっさんから聞きだした話からすると名前は千佳《ちか》というらしい。
 一方、一緒に現れた春部里衣は何時もの制服に着替えただけで特別な風には見えない。
「なんだそれ?」
 あまりの普通っぷりに思わず召屋が声を上げる。だが春部はそれに特に反応することはない。まるで他の声が聞こえていないほどに緊張しているようだった。
 それどころか短いスカートの丈を隠すように裾を引っ張りながらモジモジとしてる。
 いつもの格好なのに何してんだこいつは? などどと召屋が思っていると隣にいた千乃の父から背を叩かれ、そういった疑問が一瞬に吹き飛んでしまう。
「よっしゃ! 準備が整ったところで移動しようか? おい、坊主!! さっさとお前んとこの体育館に招待しやがれっ!!」
「学園の体育館なんて馬鹿でも分かるだろ」
「馬っっっ鹿お前ぇー、俺はお前に案内しろって言ってんだよ坊主!」
 豪快且つ豪胆に言い放ちながら召屋の背中をバンバンと叩く有葉父。
 そして、召屋は相変わらず自分が全く関係ない出来事に巻き込まれていることにウンザリし、頭を抱えていた。


「つーか糞寒いんですけど?」
 真冬の体育館は肌が痛くなるほどに空気が冷たく沈滞していた。しかも冬休みで多くの生徒が帰省するタイミングで暫く使われてないとなればなお更だ。
 そんな空間に四人はいた。
「いやもう、死ぬんじゃねーかな? この寒さ」
 上着のN-3Bのボアで冷え切った頬を暖めながら、体育館全体を見渡せるギャラリーの一箇所に陣取っていた召屋は、隣で瞳を輝かせる千乃父を横目に、目の前で起きるであろう出来事を興味なさそうに静観していた。
 目の前では有葉千乃の母親である千佳が小さな身体とは不釣合いな大きななぎなたを手に構えている。左足を二足長半ほど前に出し軽く半身になり、なぎなたを水平に突き出すが、まるでマネキンのように微動だにしない。
 一方、それに相対するのは制服姿の春部里衣。特に構えるわけでなく、腰溜めな姿勢をとるだけだ。ジリジリと動くものの、攻める反応は見せない。
 そしてもう一人、千乃はというと、春部の邪魔にならないであろうかなり後ろ辺りにタオルを持って心配そうに立っていた。
 長い沈黙……。
「なあ、おっさん? なんであいつは千乃のかーちゃんの周りをグルグル回ってるだけなんだい?」 
「かーちゃんと呼ぶんじゃねえ! 千佳さんと呼べ!」
「はぁ? どんだけお前らは残念カップルなんだよ。チャーミーグリーンでも使ってるのかよ? いいか、俺はあいつがあんな子供を攻めない理由が分からないって言ってるだけだ」
「お前みたいな鈍感馬鹿でも見てりゃ分かるさ」
 有葉父が召屋の言動を鼻で笑う。
 しばらくの沈黙そして――。
「ほれ」
 有葉父がそう呟いた瞬間だ。
 瞬きも躊躇うほどのタイミングで、春部が千佳との距離を一気に詰めるようにジャンプする。そして、いつのまにか生やしたのか、鋭い爪を彼女の喉元へと容赦なく叩き込む。
 彼女はある地方で祭られる産土神『猫神』の巫女の血筋を持つ家系の傍流だった。彼女は御身玉を自身に宿し、その力を現世へと顕現させることができた。
 その力故、父には疎まれ、母は傍流である自分が産んだことを悲しんでいた。誰からも望まれないその出自故、本来なら保護する立場である母方の一族からも忌み者と毛嫌いされ、彼女自身も能力を自分を産んだ両親を怨んでいた。
 今では感謝こそすれ、そんなことは露ほども思っていないのだが、それはまた別のお話である。
「あんんんっの馬鹿っっ!?」
 本気で飛び掛っていく彼女の容赦ない行動に思わず召屋が声をあげる。だが、隣の男は慌てることなく一言。
「黙って見てろ」
 千佳の喉下が切り裂かれると召屋思わず最悪の事態を想定する。
 だが、血肉を裂き切るはずのその爪は無為に空を切る。彼女の姿はすでにそこになかった。
「ちっ!?」
 舌打ちして、相手の反撃に対応しようと空中で体制を立て直そうする春部だったが、千佳は春部の背後へとすでに移動しており、躊躇することなく石突部分で彼女の背中をしたたかに打ち付ける。
「―――っ!?」
 そのまま冷え切った板張りの床に春部は激しく打ち付けられる。
 肺の中の空気を全て吐き出すはめになり、息ができず体全体がパニックを起す。苦痛のあまりその場でのたうつ。
 その姿を見て、千佳は特別追い討ちをするわけでもなくそれを一定の距離を取って黙って見続けいた。
 そして……。
「さあ、立ち上がりなさい、里衣さん。訓練は終わってませんよ」
 先ほど同様に中段の構えを全く崩すことなく、千乃母は優しくも厳しく彼女にそう言い放つ。 
「ちょっと待て、ちょっと待てよ、おっさん!? あの年増幼女の動きは人間ってレベルじゃねーぞ?」
 二人の手合わせを見ていた召屋が目の前で起きているありえない光景に驚き、隣の有葉父に食って掛かる。
 それはそうだ、千佳があまりに人としてはありえない動きをしたからだ。
「誰が普通の人間だって言ったい?」
 ニヤニヤと笑いながら千乃の父は召屋の方へと振り向く。
「千佳も、あいつも能力者なんだよ。あ、それと今度『年増幼女』って言ったらお前殺すから」
「それにしたって、これじゃあただのイジメじゃねえか」
 目の前で息ができず苦しそうに喘いでいる春部と息も乱さず凛としたままなぎなたを構え立っている千佳を見比べて、判官贔屓なしにこれは明らかに卑怯だと召屋は思う。
 そして、そういった感情を元に自分を苛立ちの目で睨みつける召屋を見て、有葉父は挑発するような冷笑な表情で、まるで子供に間違いを諭すような親のように優しく答える。
「なんだ? もしかしてお前は命の駆け引きをするのにしても手加減が必要とか思ってる口か? いいか坊ちゃん。戦うってことはな、自分の命を張って博打するってことだぜ。死合いは試合と違うんだぜ。ルールがあって、階級があって、相手が参ったって言えば終わるスポーツとは違うんだよ。何よりこいつは私合いだ。俺たちがとやかく言うものじゃあない」
「で、でもよぉ」
「黙れっっっ!!」
 在らぬ方向からの罵声に召屋は思わず戸惑う。
 その声はようやく息できるようになった春部からのものだった。召屋の言葉が彼女にも聞こえたのであろう。
 だが、まだ十分に回復していないのか、召屋を睨みつける余裕もなく、息が落ち着いていない。大きく肩が揺れていた。
「ま、まだ、だ。わ、私はまだ負けてない」
「ですよねぇ。そうでないといけません」
 ニコニコと微笑みながらも、千佳は中段の構えを崩さない。
「だ、大丈夫? 春ちゃん」
 バルコニーに陣取っていた召屋や千乃父とは異なり、春部の後ろにサポート役として立っていた千乃が慌てて駆け寄り声を掛ける。その表情は酷く不安そうだ。
 彼女を心配させたくなかったのだろう、春部はチアノーゼ反応を起している血色の悪い顔を精一杯歪ませ微笑む。
「も、もちろん……。あ、あたしが本気だせば……こんなおばさん…ひと、ひと捻り―――よっっっ!」
 春部の足元の床が軋む。彼女が全身の膂力を使って飛び出したのだ。
「あらやだ?」
 相手の隙を狙って春部が一気に距離を詰めたことにわずかに千佳は驚くも彼女は何事もなかったように冷静に対処する。
 最小限の動きで春部の全ての手技足技は紙一重で交わされていく。見た目は逆だが、それはまるで大人が子供と遊んでいるようだ。
「どれもこれも遅いです。ねぇ」
 そう呟きながら、千佳は召屋でも分かるほどのゆっくりとした動きでなぎなたを振り回す。すると樫でできた刀身部分がまるで春部の動きが分かっていたかのように先回りし、蹴りを入れようとしていた軸足をなぎ払う。
 蹴りの勢いを殺しきれなかったのであろうみっともなく春部は顔面から転倒する。
「悪手です」
 千佳は冷淡にそれだけ言う。
「春ちゃんっ!?」
「ひでえ、一方的じゃねえか」
「まあ、あんなもんだわなぁ」
 春部が立ち上がると、先ほどの転倒で鼻と強かに打ったのであろう鼻から血を流している。それを見かねた千乃が駆け寄り、彼女を優しく起そうとするも、それを彼女は跳ね付ける。
「は、春ちゃん?」
「ゴメンね千乃。これはね、私とあの人との勝負なの」
「でも? でも!?」
 オロオロとする千乃をなだめるように、春部は極力優しくゆっくりと、彼女が納得するようにこう言い含ませる。
「大丈夫よ千乃。私は負けないわ。あなたの声があれば。それだけで私は戦えるの」
「うん!」
「そろそろいいですか? 里衣さん?」
 構えを崩すことなく、千佳は最終通告のようにそう言い放つ。
「はい」
 そう応える春部は、先ほどまでとは顔つきが違った。
「ほう?」
 彼女の変化に気が付いたのか、有葉の父は関心する。
「それでは掛かって―――っ!?」
 千佳が言い終わることも無視して春部は襲い掛かる。先ほどと同じだ。当然千佳は冷静に対処し、その攻撃をかわす――。はずだった。
「!?」
 春部の腕が千佳の動きを察したようにわずかに方向修正する。千佳の頬を春部の爪が霞め、薄っすらとした傷を作る。
「そうだよ春ちゃん!」
 それまで試合中は一切言葉を発しなかった千乃が、春部を盛り立てるように彼女に積極的にアドバイスを言うようになっていた。
「そう、春ちゃん、右! そのまま移動して――」
 彼女のアドバイスが利いたのか、気が付けば、春部の方が優勢になっていた。というよりも千佳は完全に押し負けており、倒させるのも時間の問題だった。
 それというのも、急に春部の動きが、近視眼的な直情的なものから広範囲を見渡すような余裕のあるものに変わっていたからだ。
「あのやろー、なんか急に動き良くなったな。というか千乃のかーちゃんの方がもう疲れちまったのかな?」
「そんな単純なもんじゃねえよ、あれは。言ってみればルール違反だな」
「へ?」
 隣の男が何を言っているのか分からず、間抜けた面を有葉の父に見せてしまう。
「おーい、大丈夫かい? 千佳ぁ?」
 召屋の間抜け顔を無視して、彼は自分の妻にそう声をかける。
「うーん、やっぱりこれはまずいですよねぇ。あなた、ごめんなさいねぇ」
 千佳はそう言いながら、目の前にいる春部との距離を伺いつつも、左手の薬指に嵌めていた指輪を外すことにした。
 その瞬間異変が起こる。急に千佳の周囲の空気が張り詰め、何者も寄せ付けないような緊張感で埋め尽くされる。
 千佳の身体が変化していった。まるでそれは彼女の成長をコマ送りにしているようだ。四肢が伸び、平坦だった胸は大きく張り出し、髪もそれまでのショートカットからロングヘアーへと変貌している。唯一変化がないといえば細く締まったウェストくらいのものだろう。身体に合わない着物を無理に着崩して着ているだけにそういった女性的なボディラインが扇情的に映る。
「どうでぃ? 俺のかみさんは最高だろ?」
 さきほどまでタスキを巻いてなぎなたを持って戦っていた小さな幼女はそこになく、妙齢の女性が不釣合いな着物をアグレッシブに着こなし、なぎなたを腰溜めに持って立っていた。
 ふくらはぎどころか肉感的な太ももや二の腕、さらには豊満な胸の谷間までもあらわになっていおり、未だ幼さが残る顔つきとのアンバランスな容姿がなんとも妖艶である。ただ、長く伸びた髪の毛で顔が隠れあまり見えないのが残念だと召屋は思った
「なんだあれ?」
「あいつはよ、自分の力が強すぎたんだわ、自分の身体を壊しちまうくらいによ。だから、誰かがどんな形であれリミッターを掛けなきゃならねえんだ。ろくでもねえ生き方してきた俺ができることなんて、まあ、こんなもんだ」
「なに急に自分語りしてんのおっさ――――っ!?」
 そう寂しそうに呟く声の方に召屋が顔を向けると、そこには先ほどまでとは比べ物にならないほどに若い男性が立っている。恐らく四十歳前後であろう威厳と凛々しさを兼ね備えた顔立ち。
 ただまあ身長はちいさいままだが。
「なあ? 俺とあいつ、いい夫婦だと思わないかい?」
 そう言って不器用ながらも悪戯っ子のような表情でウィンクをする。
「知るかよ馬鹿夫婦――? ちょっとまて。もしかしてあいつの幼い容姿も??」
「さあね? そいつは秘密だ」
「死ねよ糞親父」
「黙れ糞餓鬼、そろそろ決まるぞ」
 その言葉通り、勝負は一瞬に決した。
 鼓膜が震えるような衝撃音と同時に崩れ落ちる春部の姿だけが召屋の目に映る。何が起きたのか、彼には理解できない、いや見えなかった。
(また勝てなかったなあ……)
 春部は全く手を出せなかったことを悔いつつ、春部は薄らいつつある意識の中、それまでの過去を思い返していた。



「そんなことでは有葉家のお嫁さんにはなれませんよ。さあ立ちなさい」
 なぎなたを構えて立つ少女が、へとへとになって板張りの武道場に座り込んでいる中学生の春部にそう言い放つ。その言葉は厳しく、打ち身だらけの身体以上に痛く響く。
 どうして私はこんなことをしなきゃならないのよ? 千乃の母である千佳と修練を重ねる度、稽古後に痣だらけになった身体を湯船で眺めながら、彼女はいつもそう思っていた。
「春ちゃん大丈夫?」
 心配そうに一緒に稽古を受けていた千乃が彼女の顔を覗き込む。汗だくで立ち上がる気力もないほどの彼女とは違い、汗一つかいていない。
 同じことをしていながらこれだけの差が出るのは自力の差、これまでの鍛錬の差なのだろう。
 こんなんじゃ千乃を守るなんて到底できないわね……。
 わずかに残った体力を搾り出し、なぎなたを支えにしてゆっくりと春部は立ち上がる。
 膝がカクカクと笑っていた。
 彼女は立ち上がるのでさえ限界だった。この後、動けたとしても一太刀を浴びせるのが精々だろう。
「いいですね。さあ、打ち込んでいらっしゃい」
 春部は、そう淡白に言い放つ目の前の少女の瞳を睨みつけ、この人はどうして私をいじめることに喜びを求めているのだろうかという疑問を、残りの体力共々叩きつけることにした。


 心地よい香りを醸すヒノキ造りの湯船につかりながら、擦り傷や痣だらけの身体をまじまじと見つめる。湯が傷に滲み、先ほどの稽古の厳しさを彼女に思い出させた。
 どうして千乃の母親は私にこんなことをさせるのだろう? こんな稽古が何の役にたつのか? 武芸一般に茶道に華道などなど、正直自分には合ってないと彼女は思う。大和撫子なんて言葉はあるがそれは自分には程遠いものだ。いくら稽古したところでそんなものになれるわけがない。それより何故、千乃の母は急に私に厳しくなったのだろうか? こんなことをする意味がどこにあるのだろう?
 稽古の疲労と心地よい暖かさの湯船のおかげでまどろみながら、彼女は泡沫の中でそう悩んでいた。
 有葉千乃の母である千佳が春部に様々な稽古事を勧めるようになったのは、彼女が中学に上がってからのことだった。
 幼稚園時代に千乃に出会い、初めての友達になって以降、家が近くだったこともあり、足げ良く千乃の家に遊びに行くようになっていた。
 初めて訪れた時は、その地方の名家なのであろう和風の立派な門構えと広い敷地に驚いたものだが、幼い春部がそんなことに気圧されることはなく、すぐに慣れると逆にその広い屋敷を存分に使って、かくれんぼや鬼ごっこなど、子供らしい遊びをするのに没頭していた。
 何より、ここには彼女を責めるような目で見る本家筋の人間や忌み者を見るような近所の人間もいなかった。田舎特有の半端者が爪弾きにされやすいコミュニティの中で、春部にとって唯一のオアシスが千乃の家だったのだ。
 もちろん、問題がなかったわけではない、強面の男たちが多いのには最初は戸惑ったし、祖父と間違いそうな千乃の父親や母親というには幼すぎる千佳など、面食らうことはあったが、彼らは押並べて春部に優しく、普通の子供として扱ってくれた。
 ここで過ごすことで周囲を拒絶していた春部の心はゆっくりと氷解し、子供らしい心と姿を取り戻していた。
 何より千乃と一緒に過ごせることが楽しかった。嬉しかった。一緒にお風呂に入った時に発見した、千乃の股間にぶら下がっているあるモノに関しても、それは彼女には些細な問題だった。
 ところが中学に入学した頃から、状況が変化する。
 千佳が彼女に稽古事をするようにと勧めてきたのだ。
 その歳になっても相変わらず他者に心を開くのを良しとしない春部ではあったが、他ならぬ千乃の母親、数少ない信頼できる人物の勧めとなれば断る道理もない。
 だが、それは間違いだったとすぐに気が付く。優しかった千佳はそこには居らず、全てに間違いを許さず厳しく叱咤する師範となった彼女がいた。
 当然、不満はいつか爆発する。
「もうこんなことやってられないっ!! なんで痛くて辛い思いをしてまで続けないといけないのよっ!? 馬っっ鹿じゃないの? 大体私にこういうのは不似合いないの! 武道? 茶道? もうそんなのはどうでもいいの!!」
 なぎなたを床に叩きつけながら、これまでの鬱憤を晴らすように大声で春部が喚きちらす。共になぎなたの稽古を受けていた千乃は突然の出来事に慌てふためき、春部と千佳の間に立ちオロオロと二人の顔を見返していた。
「あ、あの春ちゃん?」
「――そうですか。それも良いですね」
 表情をわずかにも崩さず、静かなトーンで千佳はそう言い放つ。
「え?」
 千佳のあまりにも淡白な反応に春部は困惑してしまう。てっきりなだめるなり、叱りつけるなりするかと思っていたからだ。
「いいと言ったんですよ。続けるのもやめるのも貴女の自由ですから。そもそも稽古事は無理強いするものでもありません」
「ふ、ふん。こんなのこっちからお断りよっ!! そもそも私はこんなことなんてしたくなかったつーの! そもそも私は千乃と一緒に居たいだけなのに何で毎日こんな辛い目に合わないといけないの? もうコリゴリ。さ・よ・う・な・ら・!」
 礼儀作法も知らないとばかりに挨拶もすることなく大股で道場を出て行こうとする。
 その時、背後から千佳が春部を呼び止める声がきこえて来る。
「里衣ちゃん」
「な、なんですか?」
 思わず足を止め、ウンザリしたような表情で振り向く。
 ほらみろ、やっぱり説教だ。大人はみんなそう。自分の行為を棚に置いて、人のことを批判する、攻撃する。私だってあんな力が欲しくてお母さんから生れたわけじゃない。それをあいつらは――私だけならともかくお母さんまで事あるごとに攻め立てる。お父さんだってそうだ。なんで庇ってくれないの?
 場違いな不満と苛立ちが、心の奥の暗闇から這い出し、彼女の全てを包みこもうとする。
 だが、千佳の口から出た言葉は、春部には意外なものだった。
「稽古事はともかく、千乃ちゃんのためにも遊びに来てくださいね。ほら、こういう家だから、本《・》当《・》のお友達になってくれる人が近所にはいないのよ。お願い」
 そう言われた春部はまるで自分が責められているような気分になり、振り返ることなく早足で道場を出て行った。
「春ちゃん……」
 そして、この場にいたもうひとりの人物である千乃は、自分がどうすればいいのか分からないのか、呆然と立ちすくんでいた。


 気まずかったこともあり、しばらくは有葉家に立ち寄らなかった春部だったが、彼女なりにほとぼりが冷めたと判断した頃合いに、いつものように千乃のところに遊びに行くようになっていた。ただし、道場や茶室のある別棟には意識的に立ち寄らないようにしていた。
 ある日のことだ『お茶菓子を取ってくる』と言って千乃が席を外している時、最近見なくなった千佳の姿が気になり、千乃の部屋からこっそり出ると屋敷内を探訪し始めた。
 しかし、いくら探しても千佳はいないかった。春部は探せば探すほどに見つからない千佳を元に否定したい思いが沸き上がる。
 そんなことはない……。そんなはずはない。
 だが、彼女の足は信じたくは無い方向へと向いていた。そして――。
「どうして、どうしてあなたがそこにいるのよっ?」
 春部は道場の真ん中で正座をしている千佳を見ながら、どうしようもない感情を糧に声を絞り出す。
「ようやく、来てきれましたね」
 振り向きもせず、千佳はそう呟いた。
「な、何言ってるのよ? 私は…私は、あんたにあんな酷い……」
 ここに至り、春部は自分が彼女に対して言った言葉を思い出し、ようやく後悔する。彼女は、春部がこの家に遊びに来る度にこの場所で待っていたのだ。
「そんなことは関係ありません」
 だが、ピシャリと千佳は春部の言おうとした言葉を否定する。
「でも、でも私は――」
 春部がそれ以上の辛い台詞を言わせないように千佳は彼女の口を塞ぐように言葉を更に重ねる。
「あなたが、こうやってこの場所を覗きにきた。それだけで十分じゃないですか。ね?」
 そういう表情が酷く可愛らしい。
「ねー、ママー。春ちゃんこっちに……ってあるぅえええ?」
 春部を追いかけてきたのであろう、千乃が微妙な空間に出くわしてしまったことに後悔する。
「ゴメンね、千乃――」
 春部はそういうと、千佳の方へと歩み寄り、そして目の前に座り、頭を下げる。
 彼女はようやく気が付く。この人は他とは違うのだということに。自分に厳しく当たることにも意味があるということに。
 彼女は自分を差別はしていないのだ。それどころか愛すべき特別な存在として見てくれているのだ。
「御免なさい!」
「そんな、いいんですよ?」
「駄目です。私が私を許せません!」
「そうは言いますがね」
 千佳はあまりの春部の豹変振りに戸惑っているようだった。
「本当にゴメンなさい、ゴメンなさい、ゴメンなさい――」
「さあ、もういいですから顔を上げなさい」「あら、目が真っ赤になって腫れてるじゃないですか。顔を洗って稽古着に着替えてらっしゃい。今日は厳しいですよ」
「はいっ!」
 春部は精一杯明るく大きな声でそれに応えるのだった。


 無駄に広い体育館の真ん中で春部と千乃の二人は正座をさせられていた。
 その目の前には有葉千佳が先ほど同様に扇情的な格好で立っている。
「さて千乃ちゃん?」
「えっ……とお」
 いたずらを見咎められた子犬のように、千乃は母親の刺す様な視線から落ち着きなく目を逸らす。
「あなた手伝いましたね?」
「だって、春ちゃんピンチだったし……」
「そういうのは駄目って言ったでしょ? 彼女のためにならないって?」
「でも、でも!?」
「すぃヴぁせぇんっ! わだじあわるがっだんでずぅ」
 みっともなく鼻水と涙を垂れ流しながら、春部がその非は自分にあると言わんばかりにえづきながらも大声を上げ立ち上がり、千佳の千乃の間に割ってはいると、もう一度謝ろうと正座し直し謝ろうとする。
「ち、違うよ春ちゃん。私が無理矢理……」
「二人ともだまらっしゃい」
 その一言で体育館中の空気が震える。部外者の自分がここに入るには酷く居心地が悪いと召屋は思う。
「――でもね、里衣ちゃん? あなたは私の言うことをちゃんと守ってましたよね?」
 メソメソと泣きじゃくる春部の前まで歩み寄ると、千佳はそう言って易しく彼女の頭を撫でる。
「え?」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、春部は優しく自分を撫でる千佳の顔を見つめる。彼女の全てを癒されるほどの笑顔がそこにあった。
「貴女は私が今喋っている間ずーっと正座してましたよね。その後もちゃんと立ち上がれましたね。以前なら三分も持たずに痺れて立てなかったのに」
「は、はい」
「ちゃんと私の言ったことを守っていたのねぇ。それとね、料理の腕も上がったみたいね? 出掛ける前に台所にあった黒豆をつまみ食いさせてもらったけど、味も色も艶も煮込み具合もとっても素敵でとっても美味しかったわ。そんな頑張ってる姿を見れて私はとっても嬉しいの」
「はいっ!」
 春部はそう答え微笑む。だが、それはいつのも彼女のそれではない。高慢でも横柄でも増長したものでもない。鼻水と涙でぐちゃぐちゃになったなんとも酷くみっともない笑顔。
 召屋には彼女がここまで悔しがり、泣きじゃくり、今に至ってそんなみっともない笑顔が出来ることは理解できなかった。
 ただ、自分以上に、比較にならないほどに、彼女は真剣で真摯なのだろうと考えを改める。
 彼女は、春部里衣は、有葉千乃の本当のパートナーになるべく、人生の伴侶に足るべく、それだけのために今も昔もそれだけのために行動しているのだ。春部の人生全ては彼女、つまりは有葉千乃のためにあるのだろう。
 召屋は、分からなかった――というよりも分かりたくはなかったことをようやく理解し、春部里衣という女性の存在を可愛いと思えると初めて気が付く。
 そして召屋はあの二人は結ばれて欲しいと真に願ってしまう。特別なことではない、彼らの普通に思う気持ちと、その強さは決してなまはかなものではないのだ。彼は思わずそれに中てられてしまった。
 だからこそ、二人には極々普通の男と女として出会って、愛し合って欲しかったとも思う。
 いや、今更そんな妄想や理想を垂れ流すのは意味が無いかもしれないとも召屋は逡巡する。でも、それでも、彼女たちには幸せになって欲しい。そう真剣に思うのだ。
 目の前に広がる歪な光景に戸惑い、それ以上に自分の無力さに打ちのめされながらも……。


〈一応終わり〉
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