【記念写真】

  記念写真


 駅のホームを歩いていると、どうしても通過していく電車の形式番号に目が行ってしまう。
 そんな悪癖を小田ユキヒロは非常に憎んだ。このどうにもしようがない癖が、一生自分を傷つけていくのかと思うとなおさら嫌になってくる。
 普通の人は電車の形式番号なぞ気にして電車に乗るものだろうか? いや、そのようなことはないだろう。どうにかして彼らのようにはなれないものかと、ユキヒロは深く悩みながら階段を上がった。
 ユキヒロは大学四年生。つまり就職活動・真只中であるはずの学生である。本屋の硬いビニール袋には、持て余した暇を潰すために買ってきた雑誌が入っている。
夜のふけた、静かな駅前広場に降り立った。コンビニの明かりがやけに目に付くぐらい、ベッドタウンの夜は暗い。
 今日は会社説明会にお邪魔してきた・・・・・・わけでもなく。
 面接に臨んできた・・・・・・わけでもない。
 柄物のシャツにジーパンという、なんともカジュアルな格好で新宿をぶらぶらしてきた。シャツは今日一日ぶんの汗がたっぷり染み込んでいて、酸っぱい匂いを放っている。
 就職活動を投げ出して、二ヶ月になろうとしていた頃だった。


 東京郊外の駅から離れた場所に、彼の下宿している小さなアパートはあった。
 黄ばんだ明かりの街灯に照らされ、住人が寝静まった暗闇の中で、ユキヒロの帰りを待っていたかのように白い壁面を浮かび上がらせていた。
 狭くて急な階段をゆっくりと上がって、端っこにある彼の部屋のほうを向いたとき。
 彼はたまらず目を疑った。ぎょっとして息を呑んだ。
 ものすごく幼い女の子が、ドアに寄りかかって座っているのだ。
「・・・・・・何、あれ?」
 迷い込んだ猫のように、女の子はユキヒロの部屋のドアにちょこんと寄りかかっている。
 金色の長い髪。ものすごく高そうな白のドレス。ぷっくり膨らんだ桃色の唇。一目見ただけで5、6歳ぐらいだと推測できる幼さであった。
 いつの間にか両足が止まっている。その存在はあまりにも不審すぎた。彼女に関して心当たりがまったくなかったし、気づかれたくなかった。
 ユキヒロに妹はいないし、幼い女の子のいとこもいない。かといって、近所で見たことがあるような姿・顔でもない。
 遠くで踏切が鳴っている。終電の音が小刻みに聞こえ、遠くへ消えていく。
 離れた位置から彼女のことを眺めつつ、しばらくどうしたものかと思案していた。


「まあ、適当に座ってね」
 と、テーブルに山積みされていた就職活動に関連する書物を、すべて押し入れに放り込みながら言った。
 女の子はとことこ部屋の真ん中までくると、そのテーブルのあたりに座った。白いワンピースドレスがふわりと着地するように、床面に舞い降りる。
 実際に近づいてみて、まずユキヒロは透き通るような金髪に驚いた。外人だったのだ。日本で見慣れない蒼の瞳は、彼をまったく落ち着かせない。ますますこの子が謎めいてきた。
 さて、どうしたものか・・・・・・。自分も床にしゃがみこんでテーブルにつくと、とりあえず、帰り際にコンビニで買ってきたペットボトルのコーラを開けた。
「キミの名前はなんていうの?」
 つぶらな瞳をほんの少し上に向けて、じっと見つめてきた。しばらくの間、ユキヒロは多くの炭酸が弾けて抜けていく音をずっと聞いていた。
「キミは僕に会いにきたの?」
 日本でいう幼稚園ぐらいの歳のこの子は、丸い瞳をじっと向けたまま、何もものを言わない。それぐらいの子供であったらもっと首をきょろきょろ動かして、落ち着きがないものだと思うのに。この子は違和感を覚えるぐらい物静かで、どっしり構えているかのようにして体を動かさない。
「うーん」
 困り果てたユキヒロはコーラをぐいっと飲んだ。
「私はマルガリータ」
 あまりにもはっきりとした声や口調に、たまらず彼はコーラを戻しかける。
「私はマルガリータ。生まれはスペイン。遠く離れたウィーンからあなたに会いにやってきました」
 ヨーロッパ人らしからぬ流暢な日本語・・・・・・というよりも、その歳でこんなにもはきはきとものを話せることにユキヒロは驚かされていた。
 まるで五歳ぐらいの子供を通じて大人の女性と会話しているような気にさせられる。
「僕に会いに・・・・・・? どうして?」
「あなたが私を必要としているからやってきました」
 と、マルガリータと名乗った女の子は言った。
 ユキヒロは優しい微笑を浮かべてみせながら、明日にでも交番に迷子として届け出てあげようと最初のうちは思っていた。


 それからずっと、マルガリータが眠たくなるまでユキヒロは彼女の話に付き合ってあげていた。
 スペインの王朝に生まれた彼女は十四歳のときに神聖ローマ皇帝に嫁ぎ、そのままオーストリアの地でこの世を去ったそうだ。高校時代に歴史を学んでいなかった彼にとって、それはとても面白い「ものがたり」であった。しかしその一方で、ありえないぐらい饒舌で博識で人間離れした妄想癖のある子供を家に入れてしまったなと、寒気のようなものも感じていた。
 ペットボトルの緑茶をコップについでやると、両手でしっかり持って、美味しそうに飲んだ。コーラが飲めないようなのでお茶を与えている。外見は人形みたいに可愛い西洋人なのに、こういうところは日本人ほとんど変わらない。本当によくわからない女の子である。
「日本人はとても疲れた顔をしている人が多いのですね。少しでも私の力が役に立てたら幸いです」
などというわけのわからない台詞を、ユキヒロは目をごしごしこすりながらぼんやり聞いていた。
冷蔵庫から引っ張り出してきた二本目のコーラが、空になったころだった。
「あなたは電車が好きなのですか?」
 眠そうにしていたユキヒロの表情が、一変する。
「駅や電車の資料がいっぱい。とても古いのね」
 と、本棚から分厚い本を手に取って言った。
 それは、JRの全線全駅のデータが網羅してある資料であった。カバーがボロボロに破れ、補強の都度貼り付けたセロハンテープが黄色く変色している。ページの角も折れたり磨り減ったりして、丸くなっていた。小学生の頃からずっと持っていたもので、いつ買ってきたのかも覚えていない。
「好きなわけじゃない」と、マルガリータからその本を取り上げる。押入れに投げ込むと、扉を乱暴に閉める。
「少し興味が沸いて集めただけ。汚くなって邪魔なので、明日にでも捨てようと思ってた」


 明日の夕方に帰ります。
 マルガリータがそう言ったので、警察のところには行かないことにした。
 二人は明け方まで話し込んでいたので、目が覚めたときにはお昼を過ぎていた。
 薄暗さのかかり始めた午後の町中を、ユキヒロとマルガリータは歩いている。この違和感たっぷりの西洋人は、不思議と、すれ違う人たちに注目されない。ほとんど姿が見えていないような様子で、町行く人々はこの蒼い瞳をした金髪の女の子にまったく興味を示さない。
 夕方に帰るとはいっても、家にいても何も面白いものはないし、おしゃべりは明け方までたっぷりやった。都会の人ごみにさらすのもかわいそう。電車で動物園や高尾山に行けなくもないが、遠出をするにはもう遅い時間だ。
 だから、好天なので日向ぼっこでもさせようかと思った。鉄道を越えると多摩川の土手にたどり着く。二人は踏切に差し掛かった。
 遮断機が下りる。単調な警報音に割り込むように、かたかたと、電車がやってくる音が大きくなってくる。京王線の長い列車がカーブを描いて近づいてきた。昼間でも付けている二灯の丸いライトは、ぎょろっとした魚の目玉を思わせた。
 列車がすぐ目の前を通過して、突風がばっと二人の髪を浮かせたとき。ユキヒロはほとんど無意識のあいだに、左から右へと高速で流れていく電車の形式番号を凝視していた。
 6767
 6267
 6217
 6567
 6117
 6067
 6017
 6717
 眼球を左から右へぐりぐり動かしていたところを、マルガリータに見られていた。ユキヒロははっとして彼女の方を振り向いた。
(僕はまた、このようなことを――)
 遮断機が上がって開かれた道を、ユキヒロは下を向いたままぐっと歩き出した。黙々と歩き出した。彼女のつぶらな瞳から逃げ出すように歩き出した。
 マルガリータはその弱々しい背中を追う。


「無理をしないでください。昨日からずっと、見ていてとても辛そうでした」
「・・・・・・ほっといてくれ」
 河原の草むらにて、二人は横に並んで腰掛けていた。ユキヒロは気分が晴れず、自分の心が今にも張り裂けそうになっているのを感じていた。
 彼は電車の運転士になりたかった。運転士になりたくて、二ヶ月前に鉄道会社の新卒採用を受けた。
 しかし、一生懸命さというよりも切羽詰った必死さにあふれていた彼のアピールは、無駄に終わってしまう。一次面接で、幼少の頃から続く夢は潰えた。
 学校で耳にしてしまったこんな会話が、余計に彼を強く苦しめる。
(俺、あそこの鉄道会社から内定貰ったんだ。なんとなく受けたら通っててびっくりしたわ)
 髪も黄色に染めて年がら年中遊んでいるような男に、どうして自分の夢を蹴落とされるのだろう。僕はどうして夢を叶えられないのだろう。
 ・・・・・・結局、就職や人生は、夢や希望で決まるものではないのだ。自分の好きなものに関われる生き方ができるのは、ほんの一握りの人間だけなのである。
 サイコロでわりふられるように、適当に決まってしまう「人生」。身をもって知った現実社会のつまらなさや、現実を前にした「人生」や「夢」といった言葉たちのとんでもない薄っぺらさ・軽さに、ユキヒロはひどく失望していた。
 だから、就職活動もすべて投げ出してしまった。あれから、興味の無い会社の選考会にどうしても本気になることができなかったのだ。履歴書もまったく書けなくなってしまった。
 それでも、ユキヒロは鉄道会社に落ちたから、情けなく逃げ続けているに過ぎない。
 就職から逃げ。現実から逃げ。社会から逃げ。好きな「電車」から逃げ。
 目をそむけては不貞寝をする、精神的に不衛生な毎日を彼は送っていた。
 ますます浮かない顔をしてうつむいてしまったユキヒロに、「大丈夫」とマルガリータが優しくささやいた。
「そのために私はあなたに会いに来ました。私はあなたの冷えきった心を温めに来たのです」
 マルガリータはユキヒロの前に来ると、その場でくるりと回る。
 ワンピースのスカートがひらりと舞い上がったと思うと、それはそのままの形を維持して大きく膨らんだ。胸元や袖口に、ピンクのリボンがぱっと咲くように現れた。金の飾り付けが模様となってドレスを豪華なものに際立たせる。幼いのにコルセットをしっかりと締め、見たこともないような大きすぎるファージンゲール・シルエットを、彼に堂々と見せつけていた。
 数百年の時を越え、目の前に顕現したスペインの王女。ユキヒロはただ愕然としていた。
「・・・・・・キミは、何者なんだい?」
「私はマルガリータ。あなたの心の『記念写真』を届けてあげるためにやってきました」
 マルガリータの小さな手のひらが、ユキヒロの胸にとんと着く。
 そのとき、粉々になっていたものが繋がりあってもとの形を取り戻すかのように、すっかりなくしていたはずの記憶が心の奥底で蘇ったのを感じた。


 ・・・・・・それは確か銭湯の帰りだったと思う。
 夏休みの間に泊まっている、じいちゃんの家に帰るところであった。
「まだここにいる気なのか。もう一時間経ってるぞお?」
 と、じいちゃんは苦笑しながら言った。それに対してユキヒロは、「うん! あと一本!」と答えたあと、黄と黒の警戒色に塗られた手すりに寄りかかる。次の電車をせがむようにして、前のめりになってレールの先をじっと見つめていた。
 列車の接近表示が点いた瞬間、警報機の赤い目がぱちぱちと輝きだす。遮断機がゆっくりと降りてくる。
「どっちの下りが来るのかな? 東海道線かな? 横須賀線かな?」
 わかんねえよ、とじいちゃんは笑い飛ばした。
 銭湯の帰り、ユキヒロはこうして踏切にかじりつくのが楽しみで仕方がなかった。この踏切では、列車がやや傾きながら弧を描いて通過していくのを見ることができる。十五両編成の長い列車が視界に納まるぐらいの大きなカーブを描き、高速ですぐ目の前を通過していくのはとても迫力があった。
「東海道線だ! 113系だ!」
 やがて、緑とオレンジに塗られた巨大な電車が傾きながら飛び込んでくる。じいちゃんにとっては、何度も同じ電車が通過していくようにしか見えないことだったろう。
 しかし、ユキヒロにはそんな一般的な視点の先にある、奥の深い面白さが見えていた。
 先頭車のライトが原型のままの編成。
 窓枠が古いデザインの、初期型が混入された編成。
 先頭車を中間に押し込んだ編成。
 JR東日本所属車とJR東海所属車の混結編成。
 特急型車両のグリーン車を持ってきて、色を塗り替えて、強引に混ぜた編成。
 このようなバラエティあふれる車両たちが、ユキヒロをとても楽しませたのだ。個性的な車両の番号はほとんど覚えてしまった。電車の形式番号を見る癖がついたのは、これがきっかけであった。
 湘南電車はまばゆい光の曲線を架線とレールに走らせる。眩しいヘッドライトが少年の目と合う。目の前を掠めるように通過し、まだ湿っている彼の前髪を浮かせた。
 火照った体に浴びせつけられる、心地よい突風。古いモーター音がうなりを上げて夜の宿場町を駆け抜けた。
 そんなけたたましい走行音に共鳴するかのように、この電車が大好きな少年の心も高揚していった。
「ねえ、じいちゃん」
 列車の赤々としたテールライトが、こちらを見つめながら去っていくなか。ユキヒロはもじもじとレールのあたりに視線をちらつかせ、じいちゃんにこのようなお願いをする。
「僕、欲しい本があるんだ」
「また電車の本か。あんまり物を与えるなってお母さんに言われてんだぞ」
「どうしても欲しいから、お母さんには内緒で。あのね、JRの全線全駅の情報が載っている図鑑があるんだ。僕、どうしてもそれが欲しい」
「じゃあ、明日一緒に本屋に行くか! ・・・・・・そうだ、ついでに電車に乗って遠くまで行こう。御殿場線乗って沼津のあたりまで行こう!」
「本当? やったあ!」
 思いがけない収穫に少年が瞳を輝かせたとき、眠りについていた生き物が目覚めて動きだしたかのように、再び警報機が鳴り出した。赤い目が交互に閉じては開く。
「あ! 今度は横須賀線の113系だ! 先頭車が銀色になってるけど、じいちゃん、あれどうしてか知ってる? あれはね――」
 このテツキチはもう! と、じいちゃんは笑った。


「じいちゃん・・・・・・」
 と、年甲斐もなくユキヒロは瞳を滲ませながら言った。
 あの旅行でもなんでもない、ただ沼津まで電車に乗っただけのことが、じいちゃんと遊んだ最後の思い出だった。次にじいちゃんの家に来たのは、じいちゃんの葬儀のときだった。
 そんなじいちゃんに無理を言って買ってもらった、全線全駅の本。それをゴミとして捨てようとしていたことを、ユキヒロは非常に申し訳なく思った。
 いくら夢が叶わなかったからといって、鉄道員になれなかったといって。そのような行為に出ようとしていた大人になった自分を、とても悲しく思っていた。
「いくら、自分の思い望まない運命に人生が左右されようとも」と、マルガリータが言う。「決して自分を偽ってはいけません。自分で自分を苦しめてはいけません。自分の好きなもの・誇りとしているものを捨ててしまってはいけません」
 ここでマルガリータは、初めてにこっと笑顔を見せてくれた。
「そうでないと、人は生きてはいけないから・・・・・・」
 ユキヒロは両肘を握る力をぎゅっと強めて、傾いた陽に反射してぎらぎらと輝く川面を眺める。もしもこの広い川の向こうからじいちゃんが自分のことを見ていたら、きっと悲しい顔をされるだろうな。と、そのようなことを思いながら。
「あなたは、自分の本当に大好きなものを捨ててはいけません。たとえ違う職に就いて、自分が思い描いていたものとは違う人生を描くことになってしまっても、好きなものは好きなままでいて良いのです」
「僕の、本当に大好きなもの・・・・・・」
「はい。それが、あなたがこれから充実した人生を送っていくのに必要なものなのです」
 マルガリータはそう言うと、斜め上に両腕を真っ直ぐ突き出して、人差し指をぴんと立てる。
 人差し指と人差し指の先を合わせると、両腕を肩幅のあたりまでゆっくり開いた。すると、両方の指先が白い直線を描いたのを見た。
 肩幅のあたりまで腕を開くと、今度は真下に向かって指先を下ろしていく。地面と直角な、縦に伸びる二本の直線が具現していく。
 膝の高さまで両方の人差し指が到達すると、さらに両指を真横に滑らせて、ぴったり合わせた。
 マルガリータの前に現れた、縦の長方形。四角い枠。
 ユキヒロが、常識ではとうてい考えられないその魔術に目を奪われていたとき。今度は枠を埋めるようにして、白く輝くまっさらな「面」が表れた。
 光が落ち着き、くっきり表れたその絵画に、ユキヒロは呆然とする。
「これは・・・・・・!」
 そこには先ほどのじいちゃんとの記憶が、一枚の絵になって鮮やかに写し出されていたのだ。
 闇夜に赤い目玉を光らせる踏切。地面と並行に伸びる遮断機。ちょうど、緑とオレンジに塗られた列車が通過していく様子が描かれている。今にも突風を肌で感じ、轟音が耳に聞こえてきそう。
 そして、踏切の前で楽しそうに会話をしている、老人と少年。銭湯帰りだろうか、老人はあかすりの入った黄色い風呂桶を片手に持っていた。
 そんな二人の背中を、離れた位置から眺めるように描かれたこの絵は、少年の無邪気で、永遠さえ感じさせる幸せそうな横顔をありありと描写していた・・・・・・。
「これがあなたの『記念写真《ラス・メニーナス》』。どうか、大事にしてくださいね」
 と、後から金色に飾られた立派な額縁が装着されたのを確認してから、マルガリータはそれを手にとった。
 ユキヒロはマルガリータからその絵画を受け取る。確かな重みを感じながら、その油絵をじっと見る。
 もう、魔法だとか魔術だとか、そういった無粋な疑問など感じる必要はない。これが、僕の大事にしていくべきものなのだ。ユキヒロはその絵をしっかり抱きしめる。
「キミは本当にいったい、何者なんだい――」
 ユキヒロが顔を上げてもう一度そうきいたときには、すでに女の子の姿はない。
 穏やかな夕凪が河原に広がる草を撫でたとき、どこからか声が聞こえてくる。
「私はマルガリータ。人々の心に眠っている美しい宝物を思い出させてあげるために旅をしています。心の深い森に迷い込んでしまった、かわいそうなあなた。そんなあなたのために、私はあなたに会いにやってきました」
 電車が鉄橋を渡っていく音が聞こえてくる。たくさんの人々を運んで、今日も当たり前のように電車は夕日を浴びながら走り続ける。
 それを聞いたとき、ユキヒロは早く家に帰りたいと思って立ち上がった。家に帰って就職活動を再開する準備に入りたいと思った。
 無性に、社会に出たいと思ったのであった。


 おまけ 「お茶の時間」


 ベラスケス作『ラス・メニーナス(女官たち)』。
 世界的な名画の向こうに、人ならざる者の茶室はある。
 王妃マルガリータは午後のティータイムを楽しんでいた。
 彼女は絵画の中の少女として数百年の時を生き、そしてラルヴァとなった。世界中の人々と会うことが趣味であり生きがいである。色々な人にもっと笑ってほしい。もっと生き生きと今を生きてほしい。そんな願いを胸に、あちこちへとスカートを翻して気まぐれに飛んでいく。
「随分と変わった色をしてますね」
 マルガリータは、ぷっくりと膨らんだ桃色の唇をカップから離した。
「バルボラ」
 そう呼ばれた小柄の女性は、しかめっ面で緑色をしたカップの中身を見ていた。怒っているわけではなく、もとからそういう表情なのである。
 バルボラはマルガリータの従者で、彼女もまたラルヴァとなり長い時を王妃と過ごしてきた。身長の低いまま成長の止まってしまった人間で、見た目は十歳程度の少女にしか見えない。しかし実年齢は三十歳ぐらいの、とても頼れる大人だ。
「そんなことないわ。これは日本のお茶。とっても美味しくて好き」
「王妃の放浪癖にも困ったものです。まったく、次はどこの国に興味を示されているのかと思ったら」
「バルボラは日本を知ってるの?」
「はい。我々が死に、世界的な大戦が起こってから知りました」
「いい国よ」と、カップを置いて語る。「どの子も個性的で、それぞれの物語を持っていて。私たちのように不思議な力も持っている」
「異能者やラルヴァが大量に発生したというのは、記憶に新しいところです」
 マルガリータはテーブルに手のひらをかざす。するとテーブルの上に大量の「写真」が現れた。彼女はその山から一枚一枚を手に取り、じっと眺めていく。
「お話したい人がいっぱい。この前、彦野舞華さんにお会いしたけど、怒られちゃった。次は誰にしようかな」
 と、彼女は「時坂祥吾」の顔写真をうっとり見つめながら言う。
「それでしたら」
 バルボラは眼鏡をかけると、分厚い本を開いた。
「来月『双葉学園』で文化祭が開かれます。王妃もそれに参加してみてはいかがでしょう?」
「文化祭?」
「要するに、学校で催されるフェスティバルです」
「双葉学園、ね・・・・・・」
 マルガリータは遠くを見つめながら、渋い緑茶を小さな口に注ぎ込んだ。



【名称】   :マルガリータ
【カテゴリー】:デミヒューマン
【ランク】  :下級S-0
【初出作品】 :記念写真
【他登場作品】:
 生きることに疲れた人たちを癒すため、美しい記憶を蘇らせてくれるラルヴァ。本体はウィーンにある肖像画で、長いこと世界を飛び回っている。能力「記念写真(ラス・メニーナス)」によって思い出を復活させてくれるだけでなく、額縁にはめられた絵画もオマケとして付けてくれる。しかし数百年を生きたラルヴァである彼女も、黒歴史を掘り起こされる残酷さは知らないらしい
なお「ラス・メニーナス」とはベラスケス作の「女官たち」のことである



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最終更新:2011年03月21日 00:09
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