【ほしをみるひと 第一話:前編】


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      1


 自分が世界とズレた存在だ、なんて自意識過剰なことを言うつもりはないけど、ぼくは稀にふわふわとした非現実感に襲われることがある。まるで夢の中にいるような感覚が支配し、何もかもを客観視できそうなほどになる。
 それはきっとぼくのような思春期ならきっとよくあることなんだろう。そんなことを他人に話したところで自分が恥をかくだけだ。将来に対する不安や、今の自分との理想の差がそうさせているのかもしれない。なんて自己分析をしたところで何の意味もないのだけれど。きっとこれも大人になれば忘れる物の一つかもしれない。ただの恥ずかしい思い出になるだけだ。
 こうして防波堤に座りながら水平線を眺めていると、そんなどうでもいいことばかり考えてしまう。青い海と青い空が目の前には広がり、ウミネコがにゃあにゃあと鳴いている。それはとても平和な光景で、だからこそ違和感を覚えてしまうのかもしれない。自分はこんなところにいていいのだろうかと。それが何に由来する物かはわからない。だけどその違和感は日に日に増していく。
 ぼくが住んでいるのはとある小さな離島で名前を三笠島という。人口もわずかだ。だけどとても穏やかでゆっくりと時間が流れていくのがとても心地いい。
 一生ここで生きていくのも悪くは無い。
 潮の臭いを嗅いで、外の世界と関わりあわずに生きていくのはきっととても楽だろう。
 だけどぼくの心の中の何かがそれを拒否している。
 ぼくがいるべき場所はここではない、と。
「おーい、カズ兄《にぃ》―」
 ぼくは自分の名を呼ばれ、その声の方向へ振り返る。そこには郁美《いくみ》が制服姿で立っていた。深井《ふかい》郁美、ぼくの血の繋がった正真正銘の妹。ぼくと同じく島の中学校に通う郁美は、栗色の髪に、学校指定の真っ白なセーラーの夏服を着ており、青い空によく映えていてとても似合っている。様々な色がプリズムのように輝いているようだ。郁美がここにいるということは学校が昼で終わったらしい。そうか、そういえば今日は終業式か。明日から夏休みだ。ずっと学校をサボっているぼくには実感がない。こうしてここで時間を潰す必要がなくなっただけだ。
 ぼくは少し気まずさを感じ、苦笑いで郁美に向かって手を上げて応答した。
「よお郁美。早いね」
「よお、じゃないよカズ兄。また学校サボったの? 中野先生に怒られちゃうよ」
 郁美はぷっくりと頬を膨らませて怒っている。今日こそ一緒に登校すると約束したのにぼくはまたこうしてここで空想に浸っていた。どうにも学校は慣れない。漠然と時間を授業で潰すだけなら、こうしてここで海をずっと眺めているほうが何倍も有意義だ。
 分数だとかなんだとかは理解できない。もう何年もここの学校に通っているのに、友達もできないで、勉強にもついていけないから現実逃避をしているだけだと言われたら何も言い返せない。いつまでもこうしているわけにもいかないんだろう。
「まぁしょうがないか。カズ兄のサボり癖は今に始まったことじゃないし。とにかくお昼なんだからお家に帰ろうよ、ほら」
 郁美はぼくの手を引っ張り、無理矢理防波堤から立ち上がらせた。
「お、おい危ないってば」
「そんなところに座ってるほうが悪いんですぅ、べー」
 郁美は笑いながら舌を出してそう言った。まったく、郁美はいつも元気だな。ぼくは郁美の笑顔を見ていると救われる気がしてくるのを感じる。清潔な郁美の栗色の髪から漂うシャンプーの香り、ぼくを引っ張る白くて細い指、瑠璃のような綺麗な瞳。その全てをぼくは愛おしく感じていた。
 ぼくらは二人で海沿いを歩き、家路を辿る。
 入り組んだ島の住宅地の坂を登って行く。家の屋根と屋根の間から差し込む日差しが眩しい。島にたくさんいる野良猫が欠伸をしていて、お昼ごはんを食べ終わり島の子供たちが遊びに出かけていくのを何度も見た。ぼくはこうして友達と遊びに行くなんてことはないから少し羨ましい。しかし本当に穏やかな島だ。
 郁美となんでもない会話をして、こうしてぶらぶらとしている今この瞬間こそが、一番幸福なのかもしれない。
 無限に広がる空を見上げながらぼくはそう思っていた。
 きっと、これからもこの空と海はぼくの前にあり続けるだろう、と。
 だけど、もしこの日常が突然壊れてしまったらどうしよう。ぼくは不安でたまらなくなる。世界は不条理だ。ぼくも、郁美もいつその不条理に蹂躙されるかわからない。緩やかに流れていくように見えるこの世界も、本当はどんな姿をしているかわからないのだから。
「どうしたのカズ兄」
 郁美が心配そうにぼくの顔を覗きこんでいる。濡れるように柔らかな唇。白く、枝のように細い首。それらがすぐ目の前にあり、ぼくは思わず生唾を飲む。
「べ、別に何も無いよ」
「本当?」
「本当だよ」
「ねえカズ兄」
「なんだよ」
「チューしていい?」
 そう言って郁美はぼくを民家の石垣に押し付け、じっと目を見てきた。やめてくれ、そんな目で見られたら、ぼくは――
「駄目だよ郁美。ぼくらは兄妹だ。普通の兄妹はそんなことしない」
「嘘。カズ兄だってしたいって、思ったでしょ。わかるよ、妹だもん。ねえ、この間みたいにしてよ」
「駄目だ。できない」
 ぼくは郁美から目を逸らす。だが郁美は踵を上げて背伸びをし、ぼくの顔にその唇を近づけてくる。ぼくは抵抗せず、その柔らかな唇が自分の唇に重なるまで黙っていた。郁美は舌をぼくの口内に侵入させて、唾液が入り込んでくる。それはとても甘く、気持ちのいいものだった。息が切れかけたところで郁美は唇を離した。その郁美の顔は紅潮しており、とても可愛かった。
「えへへ。よかったでしょカズ兄」
 そうにっこり笑って、家へと続く坂を登っていった。
 ぼくは唾液のたれた口をさっと拭い、呆然とその後を追う。こんなことはまともじゃないのかもしれない。だが幸福だった。
 だからこそぼくはここから逃げたいのだろうか。
 ここがぼくのいるべき居場所ではないと感じるのだろうか。わからない。
 幸せなのに逃げ出したいなんて、とんだジレンマだな、そう思いぼんやりと回りを見渡すと野良猫がぼくを見てにゃあと鳴いていた。バカにされているようでぼくは少し腹が立った。
 ぼくは猫を追っ払うために足で少し小突いてやった。するとどこからか声が聞こえた。一瞬猫が喋ったのかと思ったけどそんなわけがない。
「あかんで少年。猫ちゃん虐めちゃ」
 その声は澄んでいて、ここの空気とよく合っている。ぼくは声の主を探そうと左右を見渡すが坂の上で郁美が「?」という表情でこちらを見ているだけだった。
「どこ見とんのや。ここや、ここ。う~え~」
 ぼくは声の言うとおりに見上げる。すると、そこにはレースの入った真っ白なパンツがぼくの視界に入った。訂正。一人の少女が民家の屋根の上に立っていた。
「やあ少年。ようやっと気づいたか」
 少女、と言っても勿論僕より何歳も上で、恐らく高校生くらいだろう。茶髪を三つ編みにして左右に結って、お洒落なフレームのメガネをかけていた。どう見てもこの島のタイプとは違う、都会から来たような風体だった。見たこともないような制服であろうブレーザーを着ている。ぼくは不審に思いながら彼女を睨む。余所者は恐ろしいものだ。迂闊に気を許しては駄目だ。
「なんや、なんでそんな怖い顔すんの。うちも少し傷つくで。別にとって喰おう言うんやないのに。はぁ~~、まあええわ。少年、ちょっと聞きたいことあんねん」
 関西弁のその女はオーバーなアクションで肩を揺らしそう言った。
「なんですか聞きたいことって」
「あんな、この辺でどっか宿とか泊まれるとこないん? なんかこの辺の道が入り組んでてわかりにくいんや。こうして屋根の上で移動してるから迷わずにすんどるけど」
 なるほど、だから屋根の上にいるのか。って納得していいのか。ぼくは溜息をつきながら民宿の場所を教えた。「おお、よくわかったわ。ありがとうな少年。ほんじゃ、バハハーイ」
 彼女は大きく手を振ってまた屋根から屋根へと飛び移りながら去っていった。全く非常識な奴だな。ぼくはあんな高校生にはならないぞ。
 あ、しまった。さっきぼくが教えた民宿は二年前に潰れたんだっけ。ここには観光客なんてめったにこないから。どうしよう、今さら訂正しようにももうどこかへ行ってしまったようだ。まあいいか。
「ちょっとカズ兄!」
 ぼくが彼女を見送っていると、いつの間にか郁美が目の前に戻ってきていた。どうも思っているみたいだ。
「な、なんだよ郁美。どうしたんだ」
「あんなオバさんに何鼻の下伸ばしてるの?」
「別にそんなこと……」
「嘘。あの位置だとあの人のパンツ丸見えじゃない」
「う……それは。って何してるんだよ郁美!」
 郁美は何を思ったのか、自分のスカートの端をつまんでゆっくりと上げていた。白い下着が丸見えになっている。ピンクの小さなリボンがついているやつだ。ぼくは思わず目を逸らしてしまう。
「な、何してんだよ。早く降ろせよ」
「見てよ。私を見てよカズ兄。あんなオバさんのよりずっといいよね?」
「バカ。行くぞ」
 ぼくはそのまま坂を登って行く。「待ってよカズ兄!」と言って郁美は後を追いかけてきた。ぼくは心臓が高鳴っていくことに恐怖し、何も言えなくなってしまった。




         2


「おかえり和葉《かずは》、郁美。今日の昼はソーメンよ。早く鞄おいてらっしゃい」
 ぼくたちが家に帰ると母さんがそう言って出迎えてくれた。
「えー。またソーメン? 最近いつもお昼ソーメンだね」
「いいじゃないか郁美。ぼくはソーメン好きだよ」
 ぶーっと頬を膨らませる郁美をなだめながら二人の共同の部屋に入る。ぼくたちの家は古い木造の家で、畳みももう大分痛んでいるのか歩くとたわんでいる。この島の家は大抵こんな感じなので卑屈を覚えることもないが。
 部屋に入ると自分の寝場所である二段ベッドの上に鞄を放る。サボっていてもぼくは鞄を持っていっているから、母さんはぼくが学校に行っていないことを知らない。騙しているようで気が引ける。
 郁美はぼくがまだ部屋にいるっていうのに服を脱いで着替えている。まだブラもつけていない貧相な胸が見えそうだったので、ぼくは慌てて目を背ける。
「別に見たっていいんだよカズ兄。さっきだってパンツ見たでしょ」
「見てない」
「嘘。鼻血出てた」
「出てない。妹のパンツや裸みてもちっとも興奮しない」
「嘘。じゃあなんであの日に、私を抱きしめてくれたの」
「夢だよ」
「無責任」
「知ってるよ」
 ぼくはそのまま部屋を出て居間へと向かう。家は狭いからもしかしたら母さんに会話を聞かれているかもしれない。そんなのは杞憂で、母さんはエプロン姿でソーメンとツユをちゃぶ台の上に並べていた。ぼくは冷蔵庫からきんきんに冷えた麦茶を取り出して、一気飲みする。暑い日の麦茶ってどうしてこうも美味しいのだろうか。汗がさっと引いていく。
 しばらくすると水玉のワンピース姿の郁美もやってきた。郁美は笑いながら席についている。ぼくも郁美も母さんの前では普通の兄妹を演じるようにしている。母さんに余計な心配事や悩み事は増やしたくない。
「さあ、二人とも手を合わせて」
 母さんは割り箸をぼくたちに渡してそう言う。ぼくらも言われたとおりに手を合わせて「いただきます」と言いソーメンをすすり始める。ツユに入った生姜とネギの風味が美味しい。麺自体は出来合いのもので大して美味しいわけではないが、ソーメンにそこまで求めていないのでこれで十分だ。郁美も文句を言っていたわりに美味しそうに食べている。夏はあまり食欲が出ないから昼はこんなもんで丁度いい。
 風鈴がちりりんと鳴り、暑いけど心地いい風が部屋に入ってくる。本当に平和だ。
 ぼくらが黙ってソーメンを食べていると、母さんは箸を置き、ぼくらのほうを見た。ぼくたちはぽかんと不思議に母さんを見返した。
「どうしたの母さん」
「あのね和葉、郁美。お父さんのことどう思ってる?」
 ぼくは箸を止める。今自分がどういう顔をしているか見てみたいものだ。生憎とこの部屋に鏡は無い。
 父さん。
 深井京次郎《きょうじろう》。
 ぼくと郁美の父親。
 父さんはいつも母さんを泣かせていた。別に暴力を振るうわけでも暴言を吐くでもないが、ただ父さんは母さん、いや、ぼくたちにも関心を持ってはいなかったんだ。まるでぼくたち家族なんて初めから存在しないように、父さんの目にぼくたちは映ってはいなかった。
 父さんは科学者だった。ぼくたちは父さんが何の研究をしているかを教えてもらえなかったが、どうせろくでもないことだろう。いつも都心の研究所にいて、父さんと食卓を囲んだ記憶はない。いや、顔を見たのは何年も前だ。もはやほとんど顔を覚えていない。父さんの方もぼくや郁美の顔なんてもう忘れてしまってるだろうな。だからぼくは父さんなんて初めからいないものと思っている。あれはただぼくたちの生活費や学費を振り込むだけの知らないおじさんだ。そう思っているほうがいい。
 だからそんな父さんが失踪したと聞いた時も特に何の感動もなかった。もとからいないような存在だったから、本当にいなくなったと聞いても何も言うことなんてない。
 父さんが失踪したのは三年前だ。母さんは詳しくぼくらに教えてくれなかったのだが、どうやら父さんは向こうの研究所で違法な研究をしていたらしい。それで処罰が決まった時に失踪したということだ。なんてバカらしい。恥知らずの父さん。顔も忘れた父さん。あなたは今どこにいてぼくたちのことをどう思っているんですか。別に良いです。知りたくありません。
 父さんのことをそう思っているのは郁美もだろう。郁美はぼくよりさらに父さんの記憶が薄い。郁美も呆然と箸を握ったまま母さんを見ていた。
「どうって母さん。ぼくたちは父さんのことなんて知らないよ。好きでも嫌いでもないさ。ぼくたちの親は母さんだけだよ」
 ぼくはなんとかその言葉を紡いだ。どうして母さんは急に父さんの話なんてするんだろうか。
「こら和葉。お父さんのことをそんな風に言わないの。確かにお父さんは仕事でイケナイことをしていたみたいだけど。それでもお父さんが働いてた時の貯金がなかったらこうしてご飯も食べられないのよ」
 そんなことはわかっている。だからぼくは早く父さんの手から離れたい。父さんに育てられたなんて思いたくないんだ。母さんにこれ以上苦労をかけたくはない。
「父さんをどう思うかって聞いたのは母さんだろ。ぼくは素直に答えただけだよ」
「そうね。ごめん和葉……」
 母さんは謝った。やめてくれ。ぼくは母さんに謝って欲しくなんか無いんだ。そんな顔しないでくれよ。お願いだ。
「なんで急に父さんの話なんてするんだよ母さん」
「……あのね和葉。驚かないで聞いてね。お父さんから手紙が届いたの」
 ぼくはそれを聞いて身を乗り出した。手紙だって? 父さんから? 失踪したってのにどういうことだ。
「本当はこういうのは警察に届けた方がいいんだろうけど。手紙って言ってもたいしたものじゃないのよ、ほら」
 それは封筒に入っていた。
 ぼくは母さんが取り出したその封筒を手に取り、中を見る。
「なに、なんて書いてあるのカズ兄?」
 郁美がぼくの手にある封筒を覗き込む。郁美のワンピースは薄く、胸がちらりと見えそうになるが、今はそんな場合じゃない。
 封筒に入っていたのは一枚の紙切れと、鍵だった。
『和葉。これをお前にやる』
 ただそれだけがその紙切れには書いてあった。簡素であまりにも感情を感じさせない内容だった。今さら父さんのそんなところに驚きはしないが、意味がわからなかった。
 “これ”とはこの鍵のことだろうか。一体これは何の鍵なんだ。
「ねえ和葉。この鍵に見覚えある?」
 母さんはそう尋ねたが、心当たりなどありはしない。ぼくはぶんぶんと首を横に振る。
「おい郁美。お前は何か知ってるか?」
「ううん。そんなカズ兄が知らないのに私が知るわけないよ」
「そりゃあそうだ……」
 一体何故父さんは今になってこんなものをぼくに送ってきたのだろうか。もしかしたらこの手紙がきっかけで捕まる可能性だってあるのに。
「なんでこんなの和葉に送ってきたんだろうね」
「わからないよ。でも、父さんが母さんに、じゃなくてぼくに送ってきたのはなんでだろ」
 ぼくは考えたが、わかるわけがなかった。仕方なくその鍵をポケットに突っ込んだ。後で部屋に置いておこう。
「お父さんが折角送ってきてくれたんだから失くしちゃ駄目よ和葉。もしかしたら大事な物かもしれないんだからね」
「わかってるよ母さん」
 失踪した父さんのことを考えながら、ぼくは音を立ててソーメンをすすった。



        3


 昼飯を食べた後、なんとなく母さんと顔を合わせるのが気まずいので、ぼくは外に遊びに出かけた。勿論一緒に遊ぶ友達なんかぼくにはいないのでそれは嘘なのだが、特に目的もなく島をぶらつこうと思っていた。
 郁美もついてきていた。少し一人になりたい気分だったのだが、まあしょうがない。
「どこ行くのカズ兄」
「どこって……特に決めてないけど」
 ぼくたちは適当に町の外れ辺りを歩いていた。みんみんと蝉がうるさく鳴いている。ここならあまり同級生とも合わないだろうし、割と静かだ。
 草や木の泥臭い臭いが鼻をつくが、それも悪い物じゃない。ぼくらはぶらぶらとその辺りを歩いていく。目を横に向けると広い田園が見える。その中でおじいさんだかおばあさんだかわからない人が額に汗をかいて働いている。お疲れ様です。
 どこまでも、どこまでも平和で、平坦で、平然としている世界。
 たまにぼくはこの島の全てが燃えてしまえばいいと思う時がある。そうすればこの島に未練もなく、縛られることもなく出て行くことができる。今の子供のぼくじゃそんなことはできないだろう。もし勝手に出て行ったら母さんは哀しむだろうか。郁美は、どう思うんだろうか。
 ぼくはふと郁美の顔を見た。
「どうしたのカズ兄?」
 ころころとした可愛い顔でぼくを見つめている。その表情はごく普通の子供で、いつもぼくに見せる女の顔とは違う。いつもこうならぼくも安心できるのだけど。郁美がぼくに執着するのは父さんがいないせいかもしれない。父性をぼくに求めているのだろうか。それを恋愛感情だと勘違いしているんだろうか。いや、そんな心理学の真似事をぼくみたいな小学生がしてもしょうがないか。全てはなるようにしかならないのだから。
「別になんもないよ。それより今からどうしようか」
「ねえ、もっとこの島が全部見えるようなところ行こうよ。たかーい所にさ。そこで町を見下ろしながらぼーっとするのもたまにはいいよね」
「高い所ねえ……」
 この島で一番高く、休める場所と言えばこの糞長い地獄の階段の先にある三笠神社だ。ぼくらは石段を、汗をかきながら登って行く。
「うう、やめておけばよかった……」
 階段を半分登ったところでそう思った。この階段は大人でもきついんじゃないだろうか。郁美もぜーはーと息を切らしている。
「でも、ここまで来たら登るしかないよ」
「それはそうだけどな。それにしても飲みものくらい持ってくればよかったなぁ」
 ぼくは汗を腕で拭う。まったく、太陽が真上にあるせいか午前中よりも暑さが増している。一体温暖化とういうのはいつまで続くんだろうか。いや、少し前に今の地球は氷河期の延長で、本来はもっと暑いというのを聞いたことがある。あの説が本当ならぼくはこの時代に生まれてよかったのかもしれないと、どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。駄目だな、思考が変な方向にばかり飛んでいっているようだ。
 ようやく階段の終わりが見え、ぼくは笑う膝を押さえながら最後の一段から足を離した。
「ああー疲れたー」
「えへへ、ちょっと無茶だったかな」
 郁美もその場に膝をついていた。郁美も汗を大量にかいていて、露出している肌を輝かせている。ぼくは座り込みながら町のほうを見た。
 そこからの眺めはこの苦労を一瞬で吹き飛ばすのには十分すぎるものだった。
 島民が住む住宅地がまるで迷路のように見え、水平線と青い空の境界線がよく見える。そして島を包む森林。壮観だ。ここにずっと住んでいると、ここの風景の素晴らしさに築くことは少なくなる。本当にここはいい島だ。
 だからこそ、ぼくはこの島が憎くもある。
 いや、もしかしたら島がぼくを憎んでいるのでは無いか。ぼくはこの平和な島のなかで異質な存在なのかもしれない。ずっとここで生きているのに島民の誰とも親しくならず、妹と小さな世界に逃げ込んでいる。ぼくはやはりこの世界にズレを感じてしまうのだ。自分がこの世界に受け入れられるはずがないと。誰にも理解されないままただ呆然と時を過ごして死んでいくのかもしれない。
 今、この瞬間島が破壊されたらぼくはどうするんだろうか。哀しむだろうか。それとも笑うだろうか。わからない。
「綺麗だねえカズ兄」
 郁美は純粋な笑顔でその風景を見つめていた。ぼくはその横顔見つめる。
 ぼくは初めて郁美を意識したあの日のことを思い出す。あれは、いつだったか。そう、ぼくが学校に行くのをやめたあの日だ。
 あの日の出来事は思い出したくもないが、郁美を抱きしめたあの感触は忘れられない。いい匂いがした。ぬいぐるみよりも柔らかかった。唇は濡れていた。温かかった。
 全部ぼくのせいだ。
 ぼくが弱かったせいだ。
 郁美に甘えてしまった僕の責任だろう。それ以来郁美もぼくを求めるようになったんだ。父さんがいなくて一番おかしくなったのはぼくなのかもしれない。いや、そうやって他人に原因を求めるのがぼくの悪い癖だ。反省。しかし他人、か。自分で言っておいてなんだが皮肉になってしまったな。
「しかし、この神社も随分寂れてるな。誰も手入れしないのかな」
 ぼくは後ろにある社を見る。ほとんど腐って朽ちていた。扉も半壊で、誰でも進入できるようになっていた。物騒だ。ホコリや蜘蛛の巣でかなり汚れている。
「うん。前に学校の社会科の授業で町の歴史を調べよう、とかやったけどこの神社も歴史古いみたい。神主さんももう何十年も前にいなくなって誰も手入れしてないんだって」
「へえ、この島の名物みたいなもんなのに勿体無い。景色だってこんなにいいのに。いや、やっぱここまで登って来るのはきついか」
「神社の掃除や手入れする若い人はいないし、お年寄りにこの階段は酷だよ。まあ私だってやりたいとは思わないもん」
「そりゃそうだなぁ」
 ぼくは自分の震える足を見てそう思った。しかしどうしてこんな高い所に神社なんて作ったんだろ。参拝客もいないだろうに。
「そういえば昔お母さんが言ってたんだけど――」
 いきなり郁美がそう前置きしたので、ぼくは驚きながら郁美のほうを見る。
「昔お母さんが言ってたんだけど、お父さんがよくこの神社に来てたって言ってた。私たちが生まれる前の話みたいだけどさ」
「父さんが? そんな信心深いところがあったのか? 想像できないな。まあぼくたちは父さんのことを想像できるほど知らないけど……」
 ぼくは再び社に目を向ける。父さんは何を思ってこの神社に来ていたんだろうか。わざわざこんな長い階段を登ってまで。ぼくは父さんがいたこの場所に今いるということで、少しだけ父さんを身近に感じていた。
 少し休んで疲れがとれたのでぼくは立ち上がる。そして社の方へ足を向ける。
「どうしたのカズ兄。どこ行くの?」
「社の中」
「ええ? 何しに? あんなところ汚いよ、ばっちいよ」
「ちょっと、な。興味がわいた」
 ぼくは不思議そうな顔をする郁美をよそにそのまま社に向かう。
「もう、せっかくこんな綺麗な眺めの場所で二人きりなのにそんなところいくなんて信じられない。私は行かないよ、服も髪も汚れちゃうもん」
「いいよ。お前はそこにいろ」
 ぶーたれる郁美を置いてぼくはそのまま社に足を踏み入れる。土足で。仕方ないだろう、中は酷く汚れているし妙な虫も多い。ぼくは蜘蛛の巣を落ちている枝などで払いのけ、奥へ進んでいく。外はあんなに明るいのに、中はここまで暗いのかと驚いた。
 何を奉っているのかよくわからない。ミミズの這ったような文字の掛け軸などが置いてあり、読めるわけもなくぼくは無視した。
 しばらくうろうろと歩いていると、みしっとした音がした。そこの床は酷く腐っていたようで、床の底が思い切り抜けてしまった。
「うわあああああ!」
 ぼくはそのまま抜けた床から真っ逆さまに落ちていく。まるで不思議の国のアリスみたいだ、なんてどうでもいいことを頭に浮かべているうちに尻を思い切り地面にぶつける。上を見上げると、抜けた床が見える。どうやら地面に穴が開いているようだが、そんな深いものでもなかった。手を伸ばせば上れる深さだ。ぼくは少し安心する。下手に深くて救助を呼ぶとなったら恥ずかしくて島になんかいられない。ただでさえ今でも肩身が狭いというのに。
「どうしたのカズ兄―! すごい音したけど大丈夫―?」
 遠くから郁美の声が聞こえる。心配そうにしている声だが、あくまでこの社には入ってこないらしい。ほんと郁美らしいな。
「大丈夫だ、少し床が抜けたけど平気だよ!」
 ぼくも大きな声で郁美にそう伝えた。ぼくは携帯電話を取り出し、そのライト機能を使って辺りを照らす。一体なんでこんな穴が開いているんだろうか。もし白骨死体とかが埋まっていたら一大事だな。少しワクワクしながら光を照らしていくと、妙なものを発見した。
「これは、なんだ……金庫……? いや、扉か?」
 目の前にあったのは巨大な鉄の扉だった。そこだけ砂がかかっておらず、黒々とした扉がぼくの目の前に存在していた。
 だがその扉に違和感を覚えた。その違和感の正体はすぐにわかった。この扉にはノブがないのだ。扉を開けるためのとっかかりがない。だが、小さな鍵穴だけがぽつんと申し訳なさそうについている。ぼくはそれをゆっくりと撫でる。
「これは……」
 まさか、と思った。こんな偶然あるものか。まるで仕組まれているみたいじゃないか。ぼくは気持ち悪さを感じながらも、ポケットに手を突っ込み、その中のものを取り出す。
 鍵。
 父さんがぼくに送ってきた鍵だ。
 ぼくは唾を飲み込みながらその鍵をゆっくりと鍵穴へ差し込む。
 なんなんだこれは、なんなんだ。父さんは何を望んでいるんだ。まるでこれじゃあ父さんの掌で踊らされているみたいじゃないか。わけがわからない。
 ぼくはこれが全て気のせいであってほしかった。だが、その願いも虚しく鍵は鍵穴へ吸い込まれていき、軽く捻ると「カチッ」という音が響き、音を立てゆっくりと扉が自動的に開いていった。
「嘘だろ……」
 ぼくは呆気にとられる。今日送られた鍵の、その鍵穴をこんな風に同じ日に見つけてしまうなんてありえない。ぼくは驚きと恐怖を覚えながらも、押さえ切れない好奇心がそれを凌駕していた。
 父さんは、一体ぼくに何を残したんだ。







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