【翠玉の天使と三つの時 part1】



————三年前、双葉学園兵器開発局
 薄暗い部屋の中で彼は目を開けた。体は鉛のように重い。腕も、足も体のどの部分も、彼の思うようには動かなかった。かろうじて動く頭をなんとか動かしてあたりを見回すと、自分を見下ろす二人の人間が視界に入った。

「この少年……えーと、B二〇一号ですか。どうします?」
 二人のうち、若い方の男が口を開いた。自分を見下ろしながら、値踏みをしているかの目が彼には不愉快だった。
「フン、このような出来損ないのもの、連れて行ってもなんにもならんだろう。破棄だ」
 もう一人の年の頃なら五十前後の白髪混じりの男が答える。この男の目は、己の下に倒れている人間をもはや一人の人間として見てはいない。完全にモノを見るような目で見ている。
「まあ、そうなりますか。いくら改造をしても、実験をしても異能が発現する事はありませんでしたからね」
「そうだ、おまけに実験の最中に解離性同一性障害なんぞ患って! 相当な魂源力を持っていたから期待した俺の期待を裏切りやがった! コイツにかけた金と時間を返してもらいたいくらいだ」
 年配の男は憤懣やる方ないといった表情でまくしたてた。
「落ち着いてください。では、B二○一号は廃棄、データは完全に破棄という事で処理します。しかし、少し可愛そうですね。さらう際に両親と妹を皆殺しにされて、さらに実験と改造をした挙げ句に廃棄、ですか」
「フン、実験体なんぞに同情しているのかね? 奴等を一人の人間と思うな。奴等はあくまで実験体、科学の礎、モノだ。そんな考え方では一人前の科学者にはなれんぞ」
 男は吐き捨てるように言い放つ。
「これは手厳しいですね。あくまで一般論ですよ。同情なぞしていません」
「ならいいがな」
「では後の処理は他に任せるとして、次に行きましょうか。処理しなければならない問題は山積みですよ」
「まったく、この学園の連中がここまで馬鹿だとは思わなかった。人造人間が出来た事を問題にして兵器開発局を取り潰すとは。立派な兵器を製造して何が問題いけないというのだ?」
「その議論はさんざんしたでしょう。ともかく、次に行きましょう。逃げ遅れますよ」

 二人の男達は話をしながら彼のいる部屋を出て行った。もはや彼を一顧だにしない。男達の中でもう彼の「処理」は済んでいる。もう、彼は廃棄されたモノという認識なのだ。
 部屋を出て行く男達の背中を見ながら彼は思い出す。両親と、妹と、彼と四人で過ごしていた、慎ましやかながら楽しかった日々を。その全てが奪われたあの日の事を。全てを奪った男達の事を。今までに受けた過酷な仕打ちの事を。

 彼の中の何かが主張する。忘れるな、この痛み。この憎しみ、この怒り、この悲しみを。いつか必ず思い知らせてやるのだ、自分から全てを奪ったもの達に。
 そして彼は焼き付ける、自分たちの全てを奪った挙げ句に今、彼をモノのように捨てようとする男達の姿を。決して忘れないように、この先いつ出会っても、いつでも思い出せるように。

ーーーーいつか、必ず、コロシテヤル!!
 彼は殺意を心に刻んだ。



【翠玉の天使と三つの時】



————現代、双葉学園
「おい、周防《すおう》。喉乾いた、チェリオ買って来いや」
「うん、わかったよ佐々木《ささき》くん。ちょっと待っててね」
 ある日の放課後、いかにもガラの悪い、髪を金髪に染めて耳にピアスを付けた不良といった感じの佐々木という少年が呼びかける。それに対して周防と呼ばれた少年は、笑顔を崩す事無く、実に素直に返事をして、教室を飛び出して行った。
「おう、佐々木ぃ。今日も周防パシらせてんのかよ」
 教室を出て行く周防の背中を見送りながら、今度は別の少年が佐々木に話かけてくる。
「ああ、あいつ何を言っても反発しねーからな」
「いいのか? あんまりイジメてると、風紀が黙っちゃいねーぞ」
「心配ねーよ、ただパシらせてるだけなんだからよ」
 佐藤の指摘の通り、双葉学園では風紀委員の力が非常に強い。というよりも異能をふるう生徒達を黙らせるのに必要十分な武力を持っているために、醒徒会を除いては誰も風紀には逆らえないし、生徒としても風紀に目をつけられたくもない。特定の生徒をイジメているなどいう噂が流れれば、風紀委員が飛んでくるだろう。だからこの学園にはあまり表立ってのイジメは少ない、とも言えるし、彼らのような見た目からしてわかりやすい不良にはあまり居心地の良くない場所とも言えた。
「まあいいけどよ、しかし周防もよくもまあ、素直に従ってるもんだよな」
「知らねーよ。最初はちょっとツラがいいからからかってやろうと思ったらあれだ。何を言おうと反抗しねえ、にこにこ笑顔を浮かべて従うだけだ。気味悪いぜ」
「にしてもよ、なんでチェリオなんだよ。あれは校内にはねーぞ。無駄に時間かかるだけだろ」
「いいだろ、好きなんだからよ。それにアイツのニヤケ面見るとどうも弄りたくなるんだよ」
 そう言うと佐々木はゲラゲラと笑った。


 教室を出てから数分後、校門を出て少し歩いたところにある小さな商店の自動販売機でチェリオを買い、学園に戻ろうと、周防はとぼとぼと道路の端を歩いていた。
「周防君!」
 その彼の背中に声がかかる。周防に声をかけたのは風紀委員長・逢洲《あいす》等華《などか》だった。
「あ、逢洲さん。どうも……」
 声をかけられた周防はいつも通りの笑顔で挨拶をする。彼が下級のラルヴァに襲われてたところを逢洲に助けられて以来、周防と逢洲はちょっとした知り合いだった。
「キミも学園に戻るところなのか。どこかに行っていたのか?」
「ええ、佐々木君に頼まれて、ちょっとそこまでチェリオを買いに……」
「何!? まさかパシリというやつか? 君、イジメられているのではあるまいな」
「いや、そんなんじゃないですよ。佐々木君に頼まれたから、僕はチェリオを買いにきただけですから」
「本当にそうなのか? それならいいが……」
 いつでもどこでも決して笑顔を崩さない、同級生の自分にまで敬語を使う周防という少年を逢洲は少し心配している。おそらく、彼はクラスの不良連中に体よく使われているのだろうが、本人はそれを気にしていないのか張り付いた笑顔を崩さない。こうして飲み物を買いに行かされている程度で済んでいるうちはいい。だが、それがエスカレートしていくのではないかという予感があった。あのような連中にとって周防の端正な顔立ちと、何をしても、言われても笑顔を崩さないという態度は癇に障る事だろう。逢洲の心配はそこにある。だが、周防にこうして笑顔で否定されると逢洲はそれ以上深く追求する事ができないのであった。

 周防《すおう》京時《きょうじ》にとって、平穏こそが一番の幸せだ。彼はこの春、一般入試で双葉学園高校に入った。そして不運にも同じクラスにいた不良に目をつけられ、体のいいパシリとして利用されている。だが、彼はたいして気にする事もなかった。時折殴られる事もあったが、それも我慢のできる範囲だ。パシリにされている点を除けば、彼は異能力が発現していない未覚醒者のために戦場に出る事もないし、バイト先の人たちも彼に優しい。彼はこの平穏がいつまでも続けばいいと思う。

 そこから暫く京時と逢洲は話をしながら歩く。話ながら京時が道路の先に目を向けたその時だった。


————彼の目に白い服を着た少女の姿が目に入った。


 突然現れたように見えるそれに京時が目を凝らすが、それはすぐに消えてしまう。
「あの、逢洲さん」
「どうかしたか?」
「今、そこに人がいませんでしたか? 白い服を着た……」
「いや、私は何も見ていないぞ」
「そう、ですか……。見間違いなのかな」
「どうした、幻覚でも見たのか?……キミそんなに疲れているのか? まさか奴等にそんな過酷な事を」
 逢洲の怒りのボルテージが瞬時に上がる。もしここで京時が肯定すれば、数分後には佐々木がなます切りになっているであろう事は想像に難くない。
「いやいやいやいや、そんな事ないですよ。あ、そうだ。僕まだ他に寄るところがあるんでこれで失礼しますね。それじゃ」
 そう一気に言うと、京時は走って逢洲の元を離れる。駆けながら彼は呼びかける逢洲の声を聞いた。
「周防君、もし何かあったらいつでも私に言うんだぞ! 力になるからな!」
 風紀委員長である逢洲の言葉は非常に頼もしい。彼女が動けば、彼はもう二度とパシリにされる事はないだろう。だが、彼はそれを望まない。風紀委員長に目をかけられているなどと知れれば、目立ってしまうではないか。それだは嫌だった。たとえパシリにされても、目立つのは嫌だ。平穏が崩されるのは嫌だ。周防京時は歪んでいた。


     **

 気がつけば京時は、先ほど白い少女がいたであろうところまで来ていた。だが、そこには何もない。少女などどこにもいない。あるのはただのアスファルトのみ。妙な感覚を覚えてここまできたが、京時は白いビニール袋が風に流されるのを、白い少女だと錯覚しただけなのかもしれない。
(もしかしたら、本当に疲れてるのかもな……)
 既に身寄りのない彼は学費を奨学金と、大学の学食でのアルバイト等で賄っている。もしかしたら、アルバイト疲れなのかもしれない。溜息をついて下を向いた時、京時は道路の隅に、白く光る何かを見つけた。気になって拾い上げる。
「懐中時計……?」
 彼が拾い上げたのは、深緑に輝く懐中時計だった。エメラルドで出来ているのだろうか?懐中時計の放つ、そのえも言われぬ不思議な輝きに京時は思わず魅入られる。

 次の瞬間、彼は不思議な空間にいた。
 そこは、真っ白だった。白い歯車や発条や螺子をあらゆる場所に敷き詰めた部屋のような空間。天井だけが緑色なのが京時には一層その空間を奇妙なものと印象づける。
「なんだ、これ……?」
「夢よ。これはあなたの夢で私の夢。そしてあなたの心で私の心」
 声が聞こえたと思うと、足下の歯車や発条が組み合わさり、形を作って行く。一瞬にしてそれは人間の少女の形を取る。
 白い髪に白い肌、白いゴシックファッションに、背中に付けた白い小さな羽。全身が真っ白で、切れ長の瞳と、胸に下げたおそらくエメラルドのペンダントだけが緑色をしている。
 まるで人形のようだ、と京時は思う。
「キミは、いったい‥‥。ひでぶ!?」
 言いかけた京時の頬に強烈な平手が飛んだ。思わぬ力に京時はその場に尻餅をつく。女性に平手を喰らったのは死んだ母親に怒られて以来だった。
「いきなり、何を?」
「キミとは何よキミとは! 馴れ馴れしい! 私に向かってキミとは何よ!」
 少女は腕を組むと、ふんぞり返って京時を見下ろす。無闇に偉そうだ。
「あの、じゃあ、あなた様はいったいどなた様でいらっしゃるのでしょうか?」
 我ながらメチャクチャな敬語だと思いながらも、思いつく限り丁寧に京時は問いかける。
「あら、その気になればちゃんとした口がきけるんじゃない。結構よ。私の名前はメタトロン。良い名前でしょう?」
「メタトロン……。天使、だっけ?」
「だから口の聞き方に気をつけなさい!」
「あべし!」
 今度は強烈なチョップが座っている京時の脳天に直撃した。
「では、あの、メタトロンさん。どうしてあなた様は私の夢においでになったのでしょうか?」
「そりゃ勿論、アンタが私の新しい契約者だからよ。アンタは私に使える契約者に選ばれたの」
「いや、あの、全然話が読めないんですけど?」
「アンタは私を見つけた。それはアンタが私に選ばれたって事。アンタには私と契約したい理由があるはずよ」
「契約。あの、契約ってなんですか?」
「アンタは私の力を得て、そしてアンタはその代償に私に時間を捧げる。シンプルなギブアンドテイク。理解した?」
「でも、あの、力なんて、僕には……」
「あら、アンタには力で叶えたい願いがあるはずよ。それも強い願いがね。だからアンタは私の契約者になったわけ。あるでしょう、願い?」
「いや、あの僕の望みなんて、その、日々平穏に過ごしたいってだけで……」
「嘘を言うのはやめなさい。それからいちいち話す時に『あの』って付けるのはやめなさい、鬱陶しい。あのね、そんなしょうもない願いで私に選ばれるわけがないの。本当の望みは何?」
「でも、僕は嘘なんて……」
「問答無用!!」
「たわば!」
 脳天に強烈な踵落としを喰らい、京時の意識は闇に落ちた。闇の中で白いスカートの下に、白い布が一瞬見えたような、見えないような……。

 目を覚ますと、京時は先ほどと同じ場所に立っていた。持っていたはずの懐中時計も無くなっている。先ほどの奇妙な夢は白昼夢か何かなのだろうか。違和感を覚えつつも、京時は学校へ戻ろうとする。あんな平穏とはほど遠い夢は二度とごめんだ。
『本当に察しが悪いのね、アンタ』
「え、何? なんだ?」
 脳に直接声が響いたような気がした。思わず声を上げてしまう。
『今はテレパシーで話してるの。契約者とはそういう事ができるようになってるのよ』
「テレパシーだって!?」
『いちいち大きい声あげなくても聞こえるわよ見苦しい。いいから胸ポケットをみてみなさい』
 言われるままに学生服の胸ポケットを探ると、先ほど見つけた緑の懐中時計があった。
「これは……」
『わかった? それが今の私。時計モードってわけ』
「夢じゃ、なかったのか……」
『本当に馬鹿ね。夢は夢よ。幻想ではないけれど。いい? 良く聞きなさい。アンタには確かに強く叶えたいと思う望みがある。それがわかるまでアンタとは暫く仮契約って事にして一緒に行動してあげるわ』
「そんな、一方的な」
『口答えしない! あんまりしょうもない望みなら即、契約は破棄するからね!』
「は、はい!」
 テレパシーに気圧されて、思わず返事をしてしまう。それからしばらく、こちらからもテレパシー(使った事が無いのでよくわからないが)を送ってみようとしたが、反応はなかった。テレパシーを送れていないか、もしくは向こうに答える気がないのだろう。
 胸ポケットから懐中時計を取り出すと、京時は深いため息をついた。明らかに普通ではない。超科学の兵器か、それとも魔術のアイテムか、はたまたラルヴァか。いずれにしても自分の平穏が崩れかけている事は確かのように思えた。


     **

 おかしな懐中時計を拾った翌日の朝、登校した京時は憂鬱だった。憂鬱の種は勿論、あの懐中時計メタトロンの事だ。昨日は妙な疲労感で、寮に帰ってすぐに、夕食もとらずに寝てしまった。何度か懐中時計に呼びかけてみたが、一向に返事は無い。その後会話らしきものがあったのは、朝、出かける直前に時計を置いて行こうとした時。
『私を置いて行くなんて事が許されるとでも思うの!?』
 そんな罵声が響いた時だけだ。どうやら彼女は京時の観察に徹するつもりらしい。常時何かに見られているようで気が落ち着かない。
 憂鬱の種はもう一つあった。佐々木の事だ。昨日はすぐに帰ってしまい、彼のチェリオを買ってこいという頼みを完全に無視する格好になっていた。おそらく彼は待ちぼうけをくらって、かなり怒っている事だろう。今までは簡単なパシリ程度で済んでいたが、これからはエスカレートしていくかもしれない。数発は殴られるだろうな、とぼんやりと考えていた。

 始業時間ギリギリに登校した佐々木は京時を一瞥すると、たった一言だけ京時に言葉を投げた。
「放課後、体育倉庫の裏に来い」
 それだけ言うと、もう京時の事を一顧だにせずに自分の席についた。わかりやすく怒りを示していない、その静かさが逆に怖かった。ある程度の事は覚悟しておかなければならないだろう。


 そして放課後、京時は教室を出てのろのろと体育倉庫への道を歩いていた。事情をなんとなく察したらしいクラスメイト数人が声をかけてくれたが、それはやんわりとあしらった。いじめられているなどと思われれば、親切に動く人間がいるだろう。ここはそういう所だ。だが、そんな事で注目されるくらいならば、佐々木に数発殴られて終りにした方が余程楽だと思う。

『ねえ、アンタどうするのよ?』
 歩いていると突然テレパシーが聞こえた、というよりも頭に響いたという方が正しいのかもしれない。
「どうするって、何がです?」
『あの不良とやり合うんでしょ。武器とか持ってるの?』
 メタトロンは何故か盛り上がっていた。そんなに喧嘩が見たいのだろうか。
「ありませんよ、そんなもの。それはあなたも知っている事じゃないですか」
『あ、じゃあ素手でやる自信があるんだ! 格闘技とかやってたの?』
「いえ、別に」
 実を言うと、格闘技はやっていた。いや、やらされていた。だが、その忌わしい過去の忌わしいものを使う気など毛頭ない。その副産物として、見た目に反してかなり体は頑丈だったので佐々木の暴力を耐えきる自信があったのは皮肉だが。
『はあ!? じゃあどうすんのよ』
「簡単だよ。僕が佐々木君に数発殴られて終り。それだけ」
『まさかアンタ何もせずに一方的にやられるつもり?』
 いつの間にか敬語を忘れていた事に気がついたが、京時の予想外の反応にメタトロンもその事まで気が回っていないようだ。
「仕方ないよ、悪いのは僕だからね」
『アンタ、ちょっといくらんでもそれは……。いや、なんでそんな状況なのにへらへらしてるわけ?』
「ごめん、もう体育倉庫につくから黙っててもらえる?」
 まだメタトロンは騒いでいたが、京時は会話を打ち切る。そして深呼吸を一つすると、体育倉庫裏に歩みを進めた。


     **

「おう、遅かったじゃねーか。周防」
「ごめんね、佐々木君。今日は僕、掃除当番だったから」
 体育倉庫の裏に行くと、既に佐々木と、それにもう一人の男が京時を待っていた。確か佐藤と言ったか、よく佐々木とつるんでいる不良仲間だろう。
「そうか、まあそんな事はどうでもいいんだ。要件はわかってるよな」
「うん、あの……昨日はごめんなさい」
『ぺこぺこすんなこらーっ!』
 メタトロンが脳内で叫んだが、それはとりあえず無視した。何はともあれ、昨日の件に関しては京時に非がある。謝るより他にないだろう。
「そうか、じゃあまあケジメって事で」
 佐々木が口を開いたかと思った次の瞬間には京時は左頬に激しい痛みを感じた。グシャッという嫌な音をたてて佐々木の右拳が京時の左頬に炸裂する。型もないただ振り回しただけ、というようなパンチだったが、京時はもんどりうって倒れた。
「わりーな、周防。俺もあんな事されて黙ってるわけにもいかねーんだわ」
「はは、そうだよね。僕が悪いんだから」
『やり返せこのヘタレ!』
 やはりメタトロンの言葉を無視して、京時は焼けるように熱い頬を押さえながらひたすらにあやまる。これが一番のこの場での対処法だと彼は信じて疑っていない。ただパシリにするくらいで、佐々木は今までそれ以上の事はしていないし、何かを買いに行けばその分の金額はきちんと払っていた。
 佐々木は不良だが、根っからの悪人ではない。そして、戦闘系の異能者でもない。このまま殴られていれば、直に開放してくれるはずだ。それに、佐藤は自分に手を出すつもりはないようだ。おそらく、京時に舐められているわけではないというところを見せる為に佐々木が呼んだのだろう。

「おう、財布落としてんじゃねーか、コイツ」
「あっ」
 佐々木が落ちている財布に気が付き、拾い上げる。それを見た京時はあわててポケットをまさぐるが、そこに財布は無かった。間違いない、さっき殴られて、倒れた時に落としたのだろう。
「なあ、佐々木。こんな奴いくら殴ったってしょうがねーよ。金ですませようぜ」
「ああ、そうだな。殴られてもへらへらしてるからつまんねえし」
 佐藤の提案を佐々木は首肯する。京時は内心ホッとした。彼に金銭的な余裕は全くないが、金で済むのならばそれに越した事はない。

「うわ、全然入ってねーな。あれ、なんだこれ、写真?」
 佐々木は、京時の軽い財布の中に、ある写真を発見した。それは人の良さそうな中年夫婦と、満面の笑顔を浮かべる兄妹の、おそらく家族を写した写真だろう。
「おいおい、周防、お前財布に後生大事に家族の写真なんか入れてんの? 高校生にもなって? だっせーなあ」佐藤はからかうように笑った。
「あの、お金はいいんだけど、その写真は返してもらえないかな」
「なんだ、周防てめえ何マジな顔になってんだよ」
 佐々木が写真を手にした時から京時の表情が変わった。いつもの、あのパシリを言いつけられても、殴られても浮かんでいた、張り付いたような笑顔はナリを潜め、必死な形相になっている。
「面白いな。殴られてもへらへらしてた奴が家族写真の事になったら必死になってやがる。なあ、佐々木、その写真破いちゃえよ。もっと面白くなるぞ」
「そりゃあいいや。おい周防。いい年こいて家族の写真なんて後生大事に持ってるなんてみっともないからよ。俺達がこの写真『処理』してやるよ」

————『処理』?

 京時の中でそのワードが反芻される。そして目の前では家族の写真が引き裂かれようとしていた。

 処理される。
 家族が引き裂かれる。
 父さん、母さん、雪子《ゆきこ》。


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!


 あんな思いをするのはもう嫌だ!!


——そうだよなあ
——許せないよなあ

——じゃあ、『俺』に任せてくれよ

 京時はその感情に呑まれて行く。

————そして、怒りが目を覚ました。



「いてえ!」
 写真に手をかけようとした佐々木は額への激痛で思わず写真を落としてしまう。痛みの原因を知ろうと前方に目をやった。
 深緑に輝く懐中時計が浮いていた。おそらく佐々木の額に思い切りぶつけられたであろうそれは奇麗な弧を描いて男の手におさまった。
「周防!? テメエがやったのか!」
 予想外の反撃に佐々木の気が動転する。佐々木の知っている周防京時はこんな事をする男ではなかったはずだ。それに、目の前に立っている周防は明らかにいつもと違う。瞳は剣呑に輝き、禍々しいまでの殺気を放っていた。

『ナイスキャッチ! じゃないわよこのヘタレ! 時計は投げるものではない!』
「うるせえぇぇんだよ、この時計人形! 『俺』に命令するな」
『え、何、俺って? アンタ本当にあのヘタレなの?』
「だからうるせぇ! 俺の脳に声を響かせるな!」
『は、はぃぃ。なんなのよぅもう……』
 あまりの京時の豹変と、その高圧的な態度にメタトロンは黙り込むより他にない。


「ははははははは! 久しぶりに表だ! たまんねえ! たまんねえなこの感覚!」
「なんだ、おまえ……本当に、周防なのか? 周防京時なのか?」
 佐々木は思わず当たり前の質問をしてしまう。それほどまでに目の前の男には違和感が有った。
「ああ、そうだよ。俺は周防キョウジだよ! ただしお前の知っている周防京時とは違うんだけどな。俺は周防京時じゃねえ、周防《すおう》幻時《げんじ》だ。よろしくな糞ども」

「ふざけた事言ってんじゃねえぞ周防!」
 佐藤は激昂し、幻時に殴り掛かる。糞などと言われて黙っていられる男ではなかった。
 怒りのままに幻時の顔面に向かって拳を振るう。しかし佐々木と同じく力に任せた大振りなパンチは幻時の顔面に届く事はない。余裕を持って体を左側にスウェーさせて佐藤のパンチをかわすと。今度は幻時が右腕を振るう。そしてカウンター気味に佐藤のアゴに強烈な打撃が加えられた。
 佐藤のアゴを打ち据えたのは……深緑に輝く懐中時計だった。

『だから時計は武器じゃないんだってば!』
「黙ってろって言っただろ時計人形! これ以上騒いだら質屋に売り飛ばすぞ!」
『ひぃぃ! ごめんなさい。……もう嫌ぁ』
 メタトロンはもはや涙声だった。

「佐藤!? おい、佐藤!? なんなんだよ周防、おまえ、いきなり……」
 殴り掛かった佐藤は腕を振り上げたと思った次の瞬間にはアゴを打ち据えられて、昏倒していた。詳細はわからないが、周防キョウジにやられた事は間違いない。おかしい、何かが明らかにおかしい、まさか異能なのか。佐々木の精神は今、怒りよりも恐怖に支配されていた。

「まったく、一発で気絶とは情けねえ奴だな。ほら、次はお前だ、さっさと来いよ。まだまだまだまだまだまだまだ暴れ足りないんだよ!」
「いや、勘弁してくれよ。俺が悪かった、写真は返すから。ほら」
 佐々木は写真を拾い、幻時に差し出すが、その手は呆気なく振り払われた。
「バーカ! どうだっていんだよ『俺』にはそんなものなあ。お人好しの日和見主義の『僕』ちゃんのおセンチになんぞ用はねえ。それよりもかかってこいよ。ほら、俺を暴れさせろよ!」
「やめてくれ、何がしたいんだよ周防。お前、そんな奴じゃなかっただろう?」
「全く、察しの悪い奴だな。しょうがねえ、腕の一本くらいで勘弁してやるか。良い悲鳴、聞かせろよ」
「腕!? 腕ってなんだよ、何するつもりだよ」
 佐々木はもはや涙声になっている。
「ああ、腕の一本折るだけだから気にすんな。そうそう、痛みに呼応して異能が目覚めるかもしれないぞ。『俺』も昔そんな実験されたからな。指を一本ずつ折って、その痛みで異能が目覚めるかって実験だ。ま、俺の場合は目覚めなかったんだけどな」
「なんだよ腕を折るって。やめてくれよ。なあ周防! なあ!」
「無理無理。このままじゃおさまりつかねーもん」
 そう言うと、幻時は笑った。京時はいつでも笑顔を作っていたが、その笑顔とは違う。まるで、子供のような屈託の無い笑顔だった。その笑顔を見て佐々木は思う。まるで好奇心に任せて虫を殺す子供のようだ、と。目の前の周防のような男はそんな感覚で自分の腕を折ってしまえるのだと。もはや恐怖で動く事もままならなあった。
「なあ、お前、利き腕はどっちだ?」
「はい、あの……右腕です」
「そっか。じゃあ左腕にしといてやるか。やさしいなあ、『俺』」
 幻時は佐々木を引きずり倒すと腕を掴み、捻り上げる。そしてゆっくりと力を入れ始めた。
 ギリギリギリと佐々木の左腕に力がかかる。この男は本気で自分の腕を折る気だろう。佐々木は目を閉じ、観念する。


——『私』はそれを許容しませんよ。

 目を閉じていた佐々木は急に腕にかかっていた力が抜けるのを感じた。
 目を開けて顔を上げると、周防キョウジはやはりそこにいた。先ほどの禍々しさは感じない。だが、明らかに普段の周防キョウジとは違う。何か薄ら寒さを感じさせられる雰囲気だった。

「腕を折るなんてやり過ぎですよ。保健室に担ぎ込まれるような事になったらさすがに足がつくじゃないですか。『俺』は後先を考えないから困りますね」
「なんだよ、今度はなんなんだよ……」
「ああ、『私』ですか? もちろん『私』も周防キョウジですよ。もっとも私は京時でも幻時でもなく、経時《けいじ》ですけどね」
 今度の周防キョウジは口調が丁寧で、佐々木には逆にそれが恐ろしく感じられる。
「何を言ってるんだよ、周防……」
「わかりませんよねえ、そりゃ。まあそれでいいです。それよりも貴方達の処遇をどうするかが問題です」
「勘弁してくれ。二度とパシリにしたりしねえから」
「アナタの行為はイジメという程のものでもありませんから、過度な報復をする気もありません。ですが、今日の事を言いふらされると面倒なんですよね」
「言わねえ、誰にも言わねえよ! だから!」
「その発言を額面通り受け取るようなお人好しじゃないんですよ『私』は。口止めが必要ですね……」
 経時は腕を組み、下を向いて考え込む。しばらくすると、ポンと手を打ち、顔を上げる。佐々木には、その仕草はやけに芝居がかっているように見えて底知れない恐怖を感じるられた。
「じゃあ、こうしましょう。脱いでください。服、全部」
「脱げだって!?」
 思わず佐々木は素っ頓狂な声を上げる。まさか、服を脱げと言われるとは夢にも思わなかった。
「ああ、別に『私』は男色家ではないのでご心配なく。単にあなたたちのみっともない姿を写真に残して口封じをしようってだけですから。さあ、早くしてください。拒否した場合はやむを得ません。腕、いただきますんで」
「は、はい!」
「あ、そこの気絶してる彼も脱がせてあげてくださいね」
「わかりました!」
 佐々木は返事をすると、すぐさま佐藤にかけより、服を脱がし始めるのだった。

『えげつない事するわねえ、アンタ』
(ああ、初めましてですね。メタトロン。『私』は経時といいます。お見知りおきを)
『ねえ、なんなのアンタたち? さっきからおかしいわよ。もしかしてさ、『俺、参上!』とかそういうノリなの?』
(その例は当らずとも遠からずと言ったところでしょうか。我《・》々《・》周防キョウジは一つの体に別の人格が憑依しているというわけではありません。それじゃ立派な異能です。元々一つの周防京時という人格がPTSDによって分割されたものなんですよ)
『よくわかんないけど、要するに多重人格ってことなの?』
(まあ、そういう事ですね)
 データでは知っていたが、メタトロンは多重人格の人間というもを実際に見るのは初めての事だった。元は同じ人間のはずなのに、それぞれの人格はこうまで変わるのだろうか。

『そうだ、アンタもしかして京時の望みを知ってるの? 教えなさいよ』
(ほう、『私』に命令口調ですか。いいんですよ、『私』は。アナタを今日の晩ご飯を豪華にする為だ《・》け《・》にどこぞに売り飛ばしても)
 経時は唇を歪めて薄く笑う。メタトロンは完全に経時のペースにのまれていた。
『くぅぅぅ……。えーと、教えてくれませんか?』
(いやです)
『うわ、意地悪ッ!』
(教えてあげてもかまいませんが、この望みは京時自身が自覚しない事には意味が無いんですよ。だからそれまでは『私』は何も言いません)
『わかったわよ、もう聞かないから!』
 メタトロンはもう涙声になっていた。
(結構。『僕』をよろしくお願いします。後で簡単に私たちの事情を説明しますから)

「あの、その……終わりました」
 佐々木は服を脇に置き、全裸で土の上に正座をしている。そして佐藤の方は全裸に股間だけシャツをかけられて大の字でのびていた。その光景はもはや滑稽というよりもいたたまれない。
「結構です。では記念撮影といきましょうか。わかっているとは思いますけど、今日の事を口外したら、写真をばらまくのでそのつもりでお願いしますね」
 経時は笑顔で言うと、懐から携帯電話を取り出し、佐々木と佐藤を写真に撮り始めた。




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最終更新:2009年12月05日 14:07
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