【科学時代の戦乙女 第一話b】


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  ***


 翌日。
 取りあえず呼び出し等もなく過ごせていたが、俺はとても安穏とした気分にはなれなかった。あれで何も起きずに済まされるわけがない。
 教師が横を通るたびにビクビクしながら、そうして昼休みになって、やっと転校生が俺の席にやってきた。

「カズヤ、昼食を摂りに行きましょう」

 そのときの俺は少なからず阿呆の顔をしていただろう。
 だが、周囲のクラスメイトの方がより大きな衝撃を受けたらしい。途端にひそひそと何かを囁きあう、なんとも嫌な空気。
 取りあえず席を立ち、転校生を伴ってそそくさと廊下に出た。
 ……幸いというか、クラスでまともに交流のある奴はいない。周りはこちらを遠巻きに見るだけで、声をかけられることもなく脱出。
 教室前を離れつつ背後をうかがうが、転校生は何も言わず、大人しくついて来ていた。まるで昨日のことは、全くのなかったことにされているかの様だ。
 ただ、それは流石にありえないだろう。それじゃ変人を通り越して、価値観が狂っている。
 少なくとも昨日は、まともな会話が成り立っていた。そのはずだ。
「何のつもりだよ」
 人気のない特殊教室前辺りまで歩いたところで立ち止まり、俺は思い切って口火を切った。
 が、何のことかくらい分かるだろうと考えた俺が浅はかだったらしい。転校生は数秒沈思する様子を見せてから、何がですか、と応えた。
「そりゃあ、昨日の」
 ――なんと表現したらいいものか。
 考えてみれば、行為と呼べる何かがあったわけでもない。だったら、ただの挙動不審としてとぼけることも……
 いや、やっぱ無理だ。
 俺の行動によって示された意思は明白。たとえそれが未遂だとしても、だ。
「昨日は、午後も学園案内の予定でした」
 言葉の続きを待つことを止め、転校生が口を開く。
 ……よく考えたら、質問と自己紹介以外でこいつの方から話しだすのは、初めてじゃないだろうか。
「今から改めてお願いします。木津教諭からの承諾は得てありますから」
「はぁ?」
 んなアホな。

「……。何のつもりだよ」
 言ってから、同じ言葉を繰り返したのに気付いた。我ながら、芸がない。
 だが言いたくもなる。よほどの理由もなしに、ここまで無条件にすり寄られるわけがない。怪しすぎる。
 だが、俺を嵌めて何の得がある?

「どういうつもりか、判りませんか」

 含みを持たせた言葉と共に、女が一歩歩み寄る。顔が近づいた。
 感情の読めないガラス球の様な瞳が、不躾なほどにこちらを直視してくる。反射的に目をそらす。
 ついでに離れよう下がるが、カカトが何かに突き当たった。いつの間にか、壁を背負う形になっていたらしい。
 責める色はない。
 そうでありながら刺し殺すほどに直線的な眼は、刃の先端を思わせた。不可解で、恐ろしい。
 だが恐ろしいのは、昨日の行為をきっと責められると、まだ俺が思い込んでいるからだ。負い目を勝手に感じている。

 そうして残ったのは不可解だけだ。
 こいつの考えていることが、解らない。

「――ッ」
 壁際から逃れ、俺は振り向かずに駆け出した。
 こんな奴に付き合っていられるかよ。
 こちらを静止する声は聞こえない。だが俺は強迫的な何かに突き動かされて、後ろを確認せず必死に走った。
 階段の方へと曲がる。

 俺はそこで止まった。人とぶつかったのに気づいたからだ。
 危うく転倒しかけた緋村遠子は、一瞬驚いた様子を見せた。珍しい顔を見れた、などと言っている場合でもない。
 何でここに居たのか知らないが、この際、こいつの方が分かり易くてまだマシだ。
 俺は口を開こうとした。助けてくれとでも言えば、多分どうにか取り合ってくれるだろう。ちょっと情けないが。
 だが、声は出なかった。ついでに視界が傾ぎ、回転する。

 ……さっきからちょっと急展開すぎやしないか。おい聞いてんのか神様よ。
 せめていい方向に急展開してくれりゃ、気持ちよく眠れるんだが。 
 ありもしない救いを求めて、天を仰ぐ。

 最後に見えたのは、口端を僅かに歪めた、俺を見下ろす緋村の顔だった。




 身体が冷たい。
 目覚めた俺は、初めにそれを感じた。すぐに、硬い床に突っ伏しているのに気づく。
 もう十月も半ばだ。寒がりの俺としては通学用の上着が欲しくなる時期である。
 金はないから、実家から持ってきたブルゾンでしのぐ事になるだろう。しかし、今考えるべきことではない。
 ここはどこなのか。コンクリート剥き出しの床には薄く埃が積もっていて、あまり人の来ない場所だろうことは分かる。
 というか、雰囲気はまんま廃屋だ。壁紙を乱暴に剥がしたであろう跡や、不要だと放置されたらしいスチール棚が目についた。
 取り合えず起き上がろうと思って、そうして俺は後ろ手で縛られていることにやっと気付く。
 おい、これは洒落にならないぞ。

「やっと起きたか」

 耳障りな声がした。ついでに蹴られた。非常に腹立たしいことだが、結果的にはそれのおかげで意識が完全覚醒する。
「……お前かよ」
 見上げて、言うやいなや顔を踏み付けられた。続く別の笑い声で、もう一人居たことにようやく気付く。
 二人とも、同じ高等部一年の男子生徒だ。
 クラスは違うが顔を合わせる機会は多い。名前は聞いていないから知らないし、知る気もあまりなかった。
 当然だろう。
 自分に敵意を持ち因縁をつけてくる奴のことなんて、そこまでして知りたくもない。
「……何で、お前らがいるんだよ」
 が、俺は取り合えず聞かねば始まらないことを尋ねることにした。
 何故こいつらがここにいて、俺は後ろ手に縛られていなくちゃならないのか。
「いて悪いか? ああ?」
 意味を誤解されたようだ。足をぐりぐりするな地味に痛えから。
「相変わらず身の程をわきまえてねえな。オマエみたいなのがうろうろしてると目障りなんだよ、この犯罪者が」
 どうやら俺が起きるまで結構待っていたらしく、会話の展開が早い。
 ただ、いつも通りの理由なのは分かった。

 この学園に来てから、俺はこいつらに度々呼び出されて、物理的な憂さ晴らしの的にされている。
 と言ってもひどい怪我をするわけでもないし、おぞましい行為を強制されるわけでもない。
 何故かというと、こいつらからすればこれは『正しい行い』であるからだ。
 とんでもなく笑えることだが、その建前ゆえに『犯罪的な行為』には手を進めてこない。単に殴ったり、蹴ったりするだけだ。恐らく体罰と見なせるかという基準で考えているのだろう。
 滑稽だな、と思う。
 自分より悪党なら踏みにじってもいいものだと、むしろその行為によって自分が免罪されるとでも思っているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
 だが俺はそう主張しないし、抵抗したこともなかった。それもまた滑稽でしかない。
 確かに腹は立つ。立つが、こいつらの知る俺の所業は事実ではあるのだから。クソ。

 ……そう。今思えば、その事実をこいつらが何故知っていたのか、もっと早く考えてみるべきだったんだろう。
 誰がそれを知っていて、他人に触れ回る可能性があったのか。
 そいつは俺がひとしきり蹴られた後に、姿を現した。

「おはよう、川島和也」

 開扉の音と共に、女の声。
 冷淡で、それでいて高揚を抑え切れていない、やや上ずった声音。
 俺はそいつがここに姿を見せたことを、意外だとは感じてはいなかった。状況からすればむしろ自然だ。
 ただ、不可解だった。

「――緋村、遠子」

 そいつは、俺たちと最も相容れない女の筈だったから。


「いい所だろう。新棟に移ったときに床材なんかは剥がしたみたいだが、建物自体はまだまだ使えるし、防音もしっかりしている。
 風紀の権限で、出入りも簡単」
 口ぶりからするとここは学園内の、使われなくなったが取り壊しはしていない棟であるらしい。
 初っ端から職権濫用をぶっちゃけた緋村は、手振りで俺の顔から足をどけさせると、こちらを見下ろしてきた。
 いつもの鉄面皮ぶりからすると、今の顔の方が魅力的かもしれない。
 ただし、愛玩動物(ペット)でも見るかの様な目で見られて興奮する性癖があれば、の話だが。
「意外と驚かないな。面白くない」
 そんなつもりはなかったが、そう見えたらしい。あるいは、俺の無意識はこの可能性に気づいていたのかもしれない。ただ、先入観がそれを無視させた。
 俺たちとは違って、この女は正しい行いだけをやる存在だ、と。相手の行動に一貫性があると思い込み、勝手に信頼していたのかもしれない。
 人は、機械ではないというのに。
「何のつもりだよ。こいつらまで集めて説教大会でも始めるのか」
 手首の紐をほどけ、と言い忘れたのに気付くが、どうせ無視されるか。その点では今の質問も大した意味はない。
 実際のところ、俺は大体の事実を推察出来ていた。

「それはまた面白くないジョークだな。
 矯正する必要があるのはお前。彼らは手伝ってくれているだけだ」

 つまりはそういうことだ。
 一般生徒が俺の来歴を知っていたのも、こいつらに暴行を行わせたのも、ここに俺を運ばせたのも緋村の差し金だった。
 なるほど、確かに俺を殴る行為は免罪符だ。
 他ならぬ風紀委員の一人が、学園での警察に等しい者が推奨しているのだから。
「最近は大人しくなったと思っていたんだがな。新しい標的を見つけたらまたすぐ本性を現すとは、嘆かわしい」
 こいつ、見てやがったのか。

「だから、分からせてやろうと思ってな。
 お前と、この女に」

「何……?」
 開けっぱなしの入り口に、また誰かがいた。
 そいつはまあ緋村と同じく、居ても変ではなく。だが同じ様に、ここに来た理由が全く予想出来ない相手でもあった。
 転校生、ヒルダは。


「身体の方は大丈夫ですか、カズヤ。麻酔は既に効力を減じているとは思いますが」
 ヒルダは少し離れたところで立ち止まり、そう声をかけてきた。
 麻酔。なるほど、廊下でいきなりぶったおれるのはおかしいとは思ってたが、捕縛用途の麻酔でも使われたのか。多分緋村とぶつかったときだろう。
「なんで、あんたが」
 直前まで一緒に居たから、俺が倒れた場面を見ている可能性は十分ある。
 だが、どうしてわざわざこの場所についてきたのだろう。脅されでもしたのだろうか。
 それならばまあ、分かるが。
 それではまるで、俺の身を案じているようじゃないか。

 だがどうしてもそうは思えない。たとえ行動が如実に示していても。
 雰囲気がないのだ。
 いくらそれらしく行動していても、この女の立ち振る舞いには感情がまるでなかった。今、この時でも。

「お前の正体を見たいと言うから、案内してあげたのさ。
 もっとも、断ったらそれはそれで別の方法を取ることになっただろうな」
 おい、前後が対応してないぞ。
 まあ言いたいことは分かる。たまたま相手が申し出ただけで、どう転ぼうと緋村はヒルダを連れてくるつもりだったらしい。
 趣味が悪い奴が考えることはその領域に限れば多様性がないから、えてして典型的だ。
 つまりは、見世物。
 他人から見ると、ヒルダは俺に好意的な人間だと見えているらしい。それが気に入らないから、幻滅させようというのだろう。
「何か言いたそうだな?」
「……いや」
 俺はこいつから個人的な恨みでも買っていたのだろか。
 わざわざ他人を巻き込んでまで嫌がらせをするとは、相当気に入られているらしい。無論悪い意味で。
「まあ、いい。どうせ今からゆっくりと」

「――どうして抵抗しないのですか、カズヤ」

 唐突に。
 場の空気を全く無視して、転校生はそう言った。
「あなた、何を」
「貴方の行いと、貴方自身に降りかかる災難に関わりなどない筈です。
 自衛は、誰にとっても最優先事項ではないのですか」
 狼狽する緋村に一拍遅れて、周りの男二人も事態を認識した。気配が剣呑になる。
 確かに、確かにこいつの言うことはその通りでもある。
 俺の行為は、法的には何も追求されていない。脱法的だが、突き詰めれば何の罪も負わないかもしれない。
 後は、俺自身が気に病みさえしなければ。
 つまり俺は開き直れずじまいなのだ。こいつらが殴ることを免罪符にするならば、俺は殴られることを免罪符にしていただけだ。
「どうして自分自身の能力に自信と誇りを持ち、肯定しないのです。
 貴方は、戦士にも悪党にもなれないのですか」
 悪党。
 確かあの時、海辺でひょろい男に似たことを言われた気がする。
 あの男といい、あの女部長といい、どうしてあれほど自信に満ちあふれていやがるのだろう。

「……ちょっと待ちなさい。この男の行いを正当化するつもり?」
 俺の沈黙による空白に緋村が口を挟むと、ヒルダは興味を失った様にこちらから視線を移した。
「いえ、彼がそれすらも出来ないことは十分に理解致しました。
 ありていに表現すると、情けない人間だと言うべきでしょう」
 ヒルダはにべもなく答える。相変わらず直截で、誤解を抱けない言葉だった。
 どうやら俺は、不作為によって他人からの情を失ったようだ。
 別にいい、そう思うことにした。どうせ元に戻るだけだ。この調子なら、泥を被るのは俺だけで済むだろうし。
 緋村は一瞬呆気に取られたが、すぐにそう、と微笑む。
 嫌な予感がした。
「だったら、私たちに協力しなさい。
 こいつの肩を持つ必要がないのなら、断る理由はない筈よね?」
 何か気付いたのか、男二人組が忍び笑いを漏らす。
「分かりました。何をすればよいのですか」

「そうね。
 心変わりの証として、そいつの『相手』でもしてもらおうかな」

 な。
 思わず俺は素っ頓狂な声を出していた。
「お前、何考えて」
 言い終わる前に上からウエイトがのしかかり、俺は情けない声を上げて地面に押し付けられた。気付くと、背中に緋村が座っている。
「暴れるんじゃない。せっかくの見世物なのだから」
 うつ伏せのまま首根を押さえられ、顔だけを前に向けさせられた。
 指名された男がヒルダへと近づいていく。
 彼女は珍しく、判断を迷う様に立ち尽していた。が、男が腰に手を回す段階になってようやく、何の『相手』をするのか理解したようだった。
 ふざけたことを。ふざけたことを!
 俺のうなり声を聞いた緋村が、囁きかけてくる。

「よく見ていろ。たとえ眼を逸らしても、私が説明してやる。
 あれはお前のせいだ。
 お前には誰もいない。
 ――私以外には、誰もお前を」

 その辺りで、俺の耳は用を成さなくなった。頭に血が昇り過ぎていて、まともなのは眼だけだったのだ。
 どうして俺の視線は相手を射殺せないのだろうかと、そんな馬鹿なことを考えていた。
 今思えば俺は、そんな究極的な状況になって初めて、この綺麗な少女を気にかけていたことを悟ったのだ。
 そうして。
 まるで相手が愛しい者である様に眼を細め、少女は静かに、下卑た接吻を受け入れた。


 ……結局俺が大人しくしていようと、不運というのは向こうから勝手に寄ってくるものなのだ。
 この学園に来てから、俺は何も特別なことをやっていたわけじゃない。
 だと言うのに悪趣味な女に付きまとわれ、担任には余計なことを押し付けられ、そうして関わらされた女もまた、頭がおかしい奴だった。
 そうしていつもの様に、俺に特大の絶望を与えるべく策動するのだ。 
 俺の人生は最悪であった。
 この日この時。俺が最も忌避し、最も意識すべきではなかった事を思い出すまでは。


 その変化は静かであり、一部始終を見ていた俺にとっては劇的だった。
 緋村は俺の顔を見て心底愉しんでいたし、もう一人の男は状況を判断する目が腐っていた。ツレがキスの快感に酔いしれていると勘違いしていやがったのだ。

 舌を絡める男の身体が打ち震え、数滴の唾液を床に落とした。
 ヒルダと男の唇が離れる。絡んだ唾液が僅かに糸を引き、途切れ。
 重なりあっていた身体がずるりと傾ぐ。

 そうして。まるで砂袋か何かの様に、男はどさりと倒れ伏した。
 俺も含めた全員が、何が起きたかを理解することが出来ず、空気が停止する。

「――いかがでしたか、このくちづけは。
 文字通り、『天にも昇る』ようでしたか?」

 ヒルダは彼を見下ろし、そう呟いた。
 男は応えず、身じろぎもしない。

「お……おいっ」
 凝固した空気を動かしたのは、もう一人の男だった。
 倒れた男は応えない。
 俺は見たことがあった。 死にたての人間は、傍から見るとまるで眠っている様なのだ。
 男の声に応える様に、少女の冷めた碧眼が彼へと向いた。
 同時にその方向へ一歩目を踏む。
 それが契機となった。
 恐慌とも気合とも区別のつかない声と共に、男が先手を打つ。丸腰で、飛び掛る様に右拳を振りかぶる。
 もしかすると彼は身体強化系の異能力者であったのかもしれない。あるいは、今ならば虚を突けると考えたのかもしれない。
 そうであれば、無手で殴りかかる無謀も頷けた。だが浅はかだった。
 ヒルダは無造作に計算ずくの二歩目を踏み、それによって相手の的をずらしながら、相手の左側へと回る。
 空いた首へと、体重を乗せたカウンターの拳頭。
 嫌な音と共に身体がぶわりと飛び、男は壁に当たって崩れ落ちた。
 要するに、彼女は先手を取っていたのだ。
 一歩目で崩し、二歩目で撃った。そして三歩目で体勢を整える。
 細身からは想像し難い豪腕。だが身体強化系異能者だとすれば、何をもって一人目を、くちづけで殺せたのか。
「……何をしているの、あなたは」
 緋村遠子がようやく再動し、俺の背から立ち上がる。
 ヒルダはやはり、何も応えなかった。お前たちは知る必要などない、とでも言うかの様に。

「何なの、お前は!」

 ヒステリックに彼女は叫ぶ。だが行動は正確でよどみなく、そして的確だった。


 緋村遠子の異能は、行動の精密性を極限まで高める、特殊な身体強化系。
 それは自身の疲労状況など、あらゆる観測要因を考慮した完全な分析と最適な動作を、機械の様に実行可能にする。発現中であれば、能力者本人の感情さえも問題としない。
 彼女は恐慌して叫んだ。
 叫びながらも彼女の左手はブレザーの襟を引っぱり開け、右手は左脇ホルスターに収められた回転式拳銃のグリップを、正確に保持していた。


 両者の距離は6メートルほど。三歩では届かない。緋村には埋める必要がなく、ヒルダには埋める時間的猶予がない。
 そして曲がりも追尾もしないが、今の緋村遠子が撃つ弾は必中。異能による偏差射撃の精度もまた完全であり、避け得ない。
 彼女の指は引き金を躊躇わない。その動作は、感情にも影響されることはない。
 左手で襟を引っ張ったまま、上半身を右に捻りながら拳銃を抜く。腕を悠長に伸ばすことはしない。
 肘を伸ばさず胸元で構えるというロクでもない体勢だが、抜き終わると同時に銃口は相手を向く。
 彼女にはそれで十分だ。
 常人の肉体に実行可能な最速の早撃ちを、弱冠十六歳の少女が易々と実現する。

 発砲音は、一度。俺は耳を塞ぐことさえ出来ず、一時的に音を失った。


 次に見た少女の額には風穴が開いていた。
 そこから一筋煙が立ち昇る様は漫画的で、とてもシュールだ。
 体勢は少し仰け反っていて、表情はさほど変化していない。衝撃に備えたか、若干口元が引き絞られている。碧眼は相変わらず冷たい。
 狙いは正確だった様だ。『お互いに』。
 ぼとぼとという音の後に、硬いものが床に落ちた音。それが拳銃と、千切れた右手であることが見て分かる。血臭が広がり、やっとそれらしい雰囲気が出来上がった。
 死体がふたつもありながら今まで無臭だったのだ、この部屋は。
 緋村がうずくまり、弱弱しく呻くのが聞こえた。ヒルダは無反応に歩み寄る。「内側」から開いた風穴を気にする様子もなかった。
 彼女の「額」から発射された同径の銃弾は、緋村が銃口を向け終えるほんの少し前に、その右手首を正確に撃ち抜いていた。
 弾はその後軌道が変わり、右脇腹に命中している。致命傷ではないだろうが、この際大して変わらないだろう。
 激痛に意志は萎え、彼女が異能をもう一度行使する機会は訪れない。
 金髪碧眼の、人型の何かはうずくまる緋村の首を掴み上げる。
 俺はついに制止の声を上げられなかった。
 怖かったからだ。何よりも、自分がそのようにして死ぬという可能性に。

 緋村遠子の首が握りつぶされる。
 そうして死体は、みっつになった。



 俺は腹ばいから、何とか半身を起こしていた。
 小難しい計算などしなくても、両腕が自由にならない限り逃げることなど不可能なのは直感で分かる。
 だからといって、潔くじっと死を待てるわけがない。
 逃げる。どうにかして、逃げる。
 そうだ。俺は何て馬鹿だったのか。
 どんなに人生が最悪だろうと、行く先々で女にひどい目に遭わされようと、それは俺の意識が存在しているからウダウダ言えることだった。
 俺が最も忌避し、最も意識すべきではなかった事は、要約すればとてもシンプルだ。

 死は。
 死の先には何もない。
 そこには、何もあるべきではない。

 ああ、この怖れを人は陳腐と笑うかもしれないな。だが俺は、言わずにはいられない。
 それは最悪を吹き飛ばす、身のすくむ絶望だったのだから。



 頭上に影がさした、と思うと同時に、何かが俺にのしかかる。
 ロクな抵抗も出来ない俺は、肩口を掴まれて床に組み敷かれた。
 仰向けに、相手と向き合う。昨日とは全く逆の立場。
 目の前には、貼り付けたガーゼで額の穴を隠した、女の顔があった。
 反射的に恐慌し、俺は陸揚げされた魚の様にばたばたと身をよじる。
 しかし腹の上に乗った身体はおろか押さえつける手すら、ビクともしなかった。
 相手が外見より遥かに、ずっしりと重いのだ。率直な感想は、人間大の岩石。
「なん、何なんだ、お前は」
 詰まりながら言った。歯の根が合わない。目を逸らしたいが、それすらも怖かった。
 今日何度目だろう。何度も問われ、しかし彼女は何も答えはしなかった。
 だが、彼女はようやく回答を発した。

「私は自律式歩行兵器共同試作プラン三号機、VX-002。
 ペットネームは『ブリュンヒルデ』。
 どうぞ、ヒルダとお呼び下さい」

 長い答えだった。細かいところは全く意味が分からない。
 ただ、兵器。ヒルダは自身をそう称したのだけは分かった。
 自分は銃やミサイルと大差ないのだと。

「任務は、オメガ・サークルの活動に障害となり得る、双葉学園に対する妨害工作です。
 その為に」
 俺の顎に手がかかり、顔が近づく。
 何をするつもりか悟り、俺は顔を逸らそうとした。もっとも、叶うはずもない。
 ヒルダの眼が細められる。昨日の昼の様に。
 それが相手を欲情させることを意図した一種の定型的(テンプレート)な表情であり、感情を起源とした顔ではないことに、俺はようやく気付いた。

「――『血塗れ仔猫』をこの地に再来させる為に、貴方の協力が必要なのです、カズヤ」
 そうして、唇が重ねられた。

 その接吻はとてつもなく甘美だったかもしれないし、名乗り通りの味気ない、無味乾燥としたものだったかもしれない。
 が、俺がそれを理解する暇はなかった。

 なにせ俺はその瞬間、恐怖のあまり、失神していたのだから。




 風紀委員緋村遠子と他二名の遺体は翌日になって確認された。
 彼女の右腕は「肘から」なくなっており、何らかの方法で千切られたと考えられた。少なくとも一射はされている筈の拳銃を含めて、それらの部位は発見されなかった。
 無論調査は行われ警戒も実施されたが、良くも悪くもラルヴァ慣れした風土が、事実を追求することを妨げた。


 そうして、俺は生き延びた。
 しかも彼女が出来た。
 何を言っているのか全く分からないだろうが、翌日にはそういうことになっていたのだ。表向きは保健室で俺を介抱していた、というヒルダのアリバイ付きで。
 生徒手帳の履歴がこれを証明する。緋村は自分の行為を隠蔽しようとして、自分を殺した相手を利することになった。
 そうして川島和也の『彼女』という立場を手に入れたヒルダは、表向き平穏と呼べる学園生活をスタートさせた。俺を一蓮托生に巻き込みながら。

 俺は英雄でもなんでもなく、こいつもその大層な名前に何の意味もなく。


 そうして科学時代の戦乙女は、人界にその凄惨な第一歩を刻んだのだった。



        第一話 了


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