【永遠の満月の方程式 -序- 前篇】


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「月の軌道がずれ始めている?」
「えぇ、肉眼では判らない程度ですが」
 ここは双葉学園天文学部が存在する大学棟のある一室。
 そこで星見空輝(ほしみぞらひかる)が月の観察をさせていた教え子から、信じがたい観測結果を聞いたのは、時計の針が午後10時を回った頃の話だった。
「すまない、言っている事がよく解らないのだが……失礼だが、何かの観測間違いではないのかい?」
「私もそう思って何度も計算し直したのですが……」
 困惑気味に観測データを差し出す女子生徒からデータを受け取った輝は、早速パソコンにそのデータを打ち込み始めた。
 輝の横で少しおどおどしているその女子生徒は、頭も良く計算を間違うような事は今までなかった生徒だ。
 まして、観測結果から月の軌道を正確に計算するなど、天文学部に入って3年目になる彼女にとってそれ程難しい事では無い。
 輝は天体の軌道計算の練習問題として、解が既に求まっているこの課題を彼女に出したのだから。
 その彼女が計算を誤ると言う事は考え辛いと思いつつも、輝は慎重にデータを打ち込んで行ったが……
「……ずれている。近づいている」
「天体望遠鏡の故障でしょうか? でもちゃんとプログラム通り定点観測していた筈なんですけど……」
 機器の異常でない事はわかっている。周囲の星々との相対位置から月の正確な位置を算出しているのだ。
 観測映像に狂いは無く、望遠鏡が多少目標地点からずれた方向を向いていたとしても、問題なく計算できるはずなのだ。
 だと言うのに計算すると、確かに月が既存の計算結果より近づいているとしか求まらない。
「原因はわからないが、きっと機器の故障だろう。この事はもう気にせず次の課題に行きなさい」
「は、はい。分りました」
 この日、取り敢えず適当な理由をつけて生徒を帰らせた輝だったが、知人の天文学者に電話をすると他の天文台でも同様の計算結果が出始めており、混乱していると言う事が分った。
 天文学会のホームページに行くと、既にプロ・アマ問わず掲示板はその話題で持ちきりとなっている。
「大変な事になるぞ、これは……」
 本来、月は年3.8㎝と言う極僅かな距離ずつ遠ざかっている。それは月の公転による遠心力が地球と月の間に働く重力より勝っているからだ。
 しかし今、現実に月は地球に近づいてきている。それは力学的にありえない事だった。
 もしこの観測結果が本当だとすれば、今地球には未曾有の危機が起こっているのかもしれない。
 いや、このまま地球に近づいて来たとすれば、地球上の重力分布や潮汐力の変化、月の重力によって引き起こされている様々な現象が大変な影響を受ける。
 それこそ天変地異のような……。
「……ふぅ」
 ここまで考えが及んで輝はふと溜息をついた。自分が考えても仕方の無い事だ。
 この事は明日にも新聞やニュースになって大問題となるだろう。いや、逆に問題が大きすぎて公表されないかもしれない。
 いずれにせよ人の口に戸板は立てられない。現在のインターネット社会では、この事が世界中に広まるのも時間の問題だ。
「ただの大学助教授でしかない私がどうこうできる問題でもない、か」
 時刻は日をまたぎ、深夜1時になっていた。
 明日は朝一の9時から天文学の講義がある。
 天文学者の端くれとは言え、一講師に過ぎない輝は、この問題を何処かの誰かの手に委ねる事として帰路に着いた。
 健康に悪いと思いつつ、空いた小腹を満たす為コンビニで菓子パンと紅茶を買って帰る。
 流石に外を歩いている者もほとんど居ない深夜の道。
 少しばかりの人寂しさを感じていた輝が、奇妙な人物に声を掛けられたのは、もうすぐ職員寮に着く僅か100m前の場所だった。
「先生」
「っ!?」
 突然誰もいないはずの道で誰かに呼ばれた。
 「先生」と言ったその声は、自分に掛けられたものなのか?輝はその場で立ち止まり警戒するように周囲を見回した。
 しかしやはり辺りには誰もいない。姿の見えないその声に輝は一抹の不安を感じた。
 輝は異能力を持っていない。護身用の武器も携帯していない。
 声の主が何者であるのか分らないが、もし万が一ラルヴァなどであった場合、輝には生き残る術がないのだ。
「だ……誰かいるのですか?」
 恐る恐る姿の見えない相手に声をかけてみる。
 それで別に何がどうなると思ってした事ではなかったが、声を出す事は僅かながら恐怖心を押さえる事に貢献したようだ。
 輝は少し冷静になって周囲を見渡しやすい道の真ん中に移動して待つ事にした。
「先生」
 程なく、先程の声がもう一度帰ってきた。今度は心の準備をしていたお陰で冷静になって聞く事が出来た輝は、その声に奇妙な違和感を覚えた。
(この声は女性だろうか? 男性だろうか? 中性的な声だ……しかし美しい)
 その声と共に電柱の影から現われた人物は、羽織袴を着て髪をポニーテールに結った細身の人物だった。
 顔はやはり中性的で、美しいが今一男とも女とも言い切れない。
 体格も男と言えば男にも見えるし女と言っても通用するような細身で、胸も有るようにも無い様にも見えた。
「先生に助けて貰いたいんだ」
「助ける……あなたの事をですか?」
 こんな時間に今時コスプレ紛いのこんな恰好で人を待ち伏せているなど、どう考えてもまともではない。
 しかし目の前の相手には不思議な魅力があった。変人だと逃げてしまえない不思議な魅力が。
 だから輝はこの時聞き返してしまった。それが後に自分をとんでもない事件に巻き込む事になるとも知らずに……。
「いえ、この人工島を」
「双葉学園を!?」
 星見空輝は異能力者ではない。ただの双葉学園大学部で働く天文学部助教授だ。
 多くの天文学者と同じように、理数系で理論的なのに夢見がちでロマンチスト。今年でもうすぐ三十路を迎えようと言うのに結婚もしていないしがない講師。
 一人暮らしが長い為家事全般は出来るが、天文学とそれ以外これと言った特技も無い。
「ちょっと待ってくれ! 双葉学園を助けるとはどう言う事だ!? 何故何の能力も持たない私にそんな事を頼む?」
 そんな男に何故双葉学園を救ってくれなどと頼むのか?この人物の本当の目的とは何なのか?
「君は一体何者なんだ!?」
 輝は聞いた。目の前の美しい中性的な人物に。
 答えが帰ってくるとは限らないと考えていたが、その答えは案外簡単に相手の口から紡がれる事となった。
「私は天津甕星(あまつみかぼし)。星を司る神だよ」
 この学園島を賭けた星をめぐる事件が、今静かに幕を開いた。


【永遠の満月の方程式 -序-】


「それでは本日の最高気温です。本日は全国的に気温が上がり、3月上旬並みの温かな一日と――」
 時刻は朝7時。
 いつもより遅めの朝食を取りながら、輝はテレビで朝のニュースを観ていた。
 バターをたっぷり塗ったハムトーストを頬張りながら、片手でリモコンを忙しなく操作する。
 NHKから民法、地方局、様々なチャンネルを回しながら『月の接近』について報じられていないか探しているのだ。
 そして、その机の真向かいで図々しく朝食を取る者がいた。
「いつまで私に付き纏うつもりですか?」
「先生が助けてくれると言うまでだよ」
 昨夜輝が出会った神を名乗る中性的な人物『天津甕星』。
 輝が断ってからも「助けてくれるまで頼み続けるよ」と言い勝手についてきてしまったのだ。
 勿論、こんな得体の知れない人物を無用心に家に上げる輝ではない。
 しっかり断って家に入れないよう鍵をかけて寝たはずなのだが、朝起きるとどこから侵入したのか机に座り、おりおはようより先に例の事を頼んできたのだった。
 輝も流石に恐くなり、トイレで110番通報してみたのだが何故か一向に繋がらない。
 不思議に思っていると、トイレの外から「今朝は事件が起こって電話が通じなくなると知っていたからね」との声が聞こえ、通報を断念したと言う訳だった。
「何度も言っているでしょう、私は何の力も無いただの一般市民なんです。そう言う事は異能力を持つ生徒にでも頼んで下さい」
「私の『星見』であなたが助けてくれると出たんだ。間違いなく先生が私の救い主だよ」
 そして本日、何度目かの押し問答を終え仕事にも出なければならない輝は、取り敢えず今のところ害の無い天津甕星を放って置いて通勤の準備を始めた。
(それにしても……)
 テレビの選局をNHKに合わせ輝はリモコンを置いた。
(どのチャンネルでも月の接近について報じていない。やはり問題が大きすぎて報道規制が敷かれたのか?)
 やはりどの局にチャンネルを回しても月に関しては一切触れていない。
 今朝起きて見た天文学会ホームページの掲示板からも、昨夜見た書き込みは消されていた。
 不気味なほど早い対処だが、この事が公になれば世界は大混乱になるだろう。そして何より、そこから異能力やラルヴァの事が知られてしまえば一貫の終わりだ。
 おそらく国による物であろうこの見事な対応も、事の大きさから鑑みれば当然と言った所なのだろう。
 輝がそんな事を考えていると、向かいでパンを食べていた天津甕星が口を開いた。
「この事は2週間後、月の大きさが誰が見ても明らかに大きいと感じるようになるまで公表されないよ。その事も分ってる」
 まただ、と輝は思った。
 昨夜から天津甕星は未来の事が分っている様にものを言う。それは星を見て未来に起こる事を知っているからと言うのだが……。
「あなたは占い師か何かなのですか?」
 占星術と言う物がある事は知っている。
 しかし輝は、基本的に占いなどによる未来予知が出来るなどと非科学的だと思い信じていないし、第一これほどの精度を持って細かく知る事が出来るなど到底信じがたかった。
 ただしこの世界には異能力やラルヴァと言った非科学的な存在が現に存在している。
 輝は自分なりに、この目の前の神を自称する人物も何かのラルヴァか未来予知の異能力者か――そう思っていた。
「似たようなものだよ。ただし、私の星見は占いと言うより予知や予見に近いものだけどね」
 やはりそう言う能力か、と輝は思った。そしてだからこそ譲れないものがある。
 異能力と言う理不尽な力によって未来を知っているのなら諦めようもあるが、それが星を見て知る、さも技術か知恵のように言われてはどうにも納得できないのだ。
「私も職業柄毎日星と睨めっこしていますが、規則性を持って運行される星々の動きから未来が判るなんて、俄かには信じがたいですね」
「道具を使って観ては駄目だよ。雲などに隠れる星の見え方や明るさ、瞬き、全てから解るのだから」
「それはスゴイですね」
「信じていないね? しかし事実だよ」
 そう言って話を切った天津甕星は最後の一口を頬張り、袖の中から何かを取り出した。
「何ですか? それは」
「先生のこの先30年分の未来を書いた紙だよ」
「なっ!?」
 天津甕星が手に持ちヒラヒラさせているA3サイズの紙、それに輝の未来が30年分も書かれていると言うのだ。
 そんな物を他人に渡されたら大変な事になりかねない。天津甕星はあろう事か、とうとう輝を脅迫すると言う手段に出たのだった。
「大丈夫、悪用する気は無いよ。ただ先生はこのまま行くと30歳になる今年、大変な災いに見舞われる事になる」
 普通なら「そんな事嘘だ」と無視してしまえば良い所だが、天津甕星の力はもう充分知った輝だ。言う事を信じざるを得ない。
 食べかけのパンを置いて「それをこちらに渡して下さい!」と言う輝に「フフッ、どうしようかな~」などと逃げ回る天津甕星。
 未来を予知出来るからなのか単純に運動神経が良いだけなのか、輝は天津甕星を捕まえる事が出来ない。
 朝の忙しい時にこんな事している場合じゃないのにと思いながらも、あの紙を放ってはおけない輝が躍起になって奪い取ろうとしていると、誤って足の小指をタンスの角にぶつけてしまった。
「いたぁっ!! いたたたたた……うぐぐ……」
 ぶつけた小指を抱えて床を悶絶する輝を見下ろしながら、天津甕星は勝ち誇った顔でこう言った。
「その災いがいつ来るのか? どうすれば回避出来るのかもここに書かれている。助けてくれるなら渡してあげるけど……どうする?」
「きょ……協力するので教えて下さい……」
「フフッ、それが賢明だ」
 こうして星見空輝は天津甕星に協力する事になったのだった。



 いつもの学校への道、輝は普段一人で歩くこの道を、今日は二人で歩いていた。
 輝の隣に並んで歩く天津甕星は相変わらずの羽織袴姿で目立つ事この上ない。
 本当はこんな目立つ通勤嫌だった輝だが、天津甕星は勝手についてきてしまい、走って逃げようとしても何故か必ず先回りされてしまうので無駄な足掻きと諦めた。
 それにしても、と輝は思う。明るい所で改めて見てみると、やはり天津甕星は美しい。
 和風な出で立ちの人物に使う表現ではないが、まさにギリシャ彫刻のような性別を超えた美しさがあった。
「私の顔に何かついてるのかな?」
「い、いえ。少し考え事を……」
 輝はつい天津甕星の顔に見入ってしまっていたようだ。その事を指摘され慌てて顔を逸らす。
 平静を装ったつもりだったが、天津甕星は意味ありげに「フフッ」と笑って二人の間の距離を縮めてきた。
 一瞬、驚き離れてしまいそうになった輝だったが、すぐに考え直し体をかわす事を止めた。
 輝は昨夜から隣の人物の手の平で踊らされているような気がして、少しの悔しさと対抗心から敢えて距離を取らず気にしない風を装う事にしたのだ。
 天津甕星は何も言わない。その沈黙に耐えられなくなった輝は、昨夜からずっと疑問に思っていた事を聞いて見る事にした。
「ところで、改めてお聞きしたのですが」
「何だい? 私に分かる事なら何でも答えるよ」
 輝は相手の顔を見ないで声を掛ける。
 声を掛けられた方の天津甕星が、隣で輝の顔を見上げてきた事は目端で分ったが向き直ったりしない。
 真直ぐ前を見て歩く輝と、隣で彼を見て話す天津甕星。スーツと日本服の組み合わせは、ここ双葉学園でもかなり目立つ組み合わせだった。
「どうして異能力も持たない、一般人の私なんかに頼むのですか? どう考えても適材とは思えないのですが」
「フフッ、それはね――」
 人差し指をピッと立てて得意気に話し始める天津甕星。案外可愛げのある神様だ。
 しかしその事には突っ込まないで、輝は静かに天津甕星の説明を聞く事にした。
「ラルヴァの力も人間の異能力も、元を辿れば自然によって与えられた力だ。そして自然から未来を読む私の未来もまた自然によって定められた運命なんだ」
 1999年7月――ノストラダムスの大予言の年、世界中で異能力者やラルヴァが急増した。
 この時から世界は大きく変わってしまった。いや、表向きは何も変わっていない事になっているが、世界の裏側では激変を迎えたのだ。
 丁度世紀末で世界中の人々がどこと無く落ち着かなくなっていたし、テレビは連日こぞって大予言に関する特番や、超能力や心霊現象、超常現象に関する特番を放送していた。
 超能力、霊能力、心霊現象、超常現象、UFO、UMA。それらはブームのせいもあってか爆発的に増え、そして1999年の終わりと共に一気に収束していったのだ。
 そう、少なくとも表向きは……。
「自然の定めた運命は自然から与えられた力では変えられない。よって神――君達の言い方をするなら私もラルヴァか。ラルヴァや異能力者では私の見た運命は覆せないんだよ」
 異能力者では覆せない、と聞いて輝の頭にはクエスチョンが浮かんだ。
 当時まだ『この業界』に入っていなかった輝は、当時の事を資料や口伝えに訊いただけで詳しくは知らない。
 しかし1999年7月に発生したエンブリオは人間の手によって破壊されたと聞いた。それも異能力を持った者達も戦っての結果だ。
 大予言にある恐怖の大王とエンブリオは直接は関係はなく、ラルヴァ大量発生の要因とは結びつかない一現象に過ぎないとの考え方が現在の通説だが、輝は昔流行った古い仮説の方を個人的に信じていた。
 いや、正確には信じたいと思っていた。不謹慎ながらその方がロマンチックだと感じていたからだ。
 だがエンブリオを破壊した後も、ラルヴァは変わらず世界各地に出現し続けている。輝が思うような古い仮説は現状と矛盾する。
 もし天津甕星の言う事が正しいとすれば、人類の滅亡、世界の破滅と思われた1999年の出来事は、今も続いていると言う事になるはずだが――。
 そこまで考えて輝は新しい、ある仮説に辿り着く。現段階では全く何の根拠も無い、仮説と言うにもおこがましい妄想の域を出ない話だが、その考えは一気に輝の頭の中に湧いてあふれ出した。
「ちょっと待って下さい! あなたの見た運命? それは一体……!?」
「……」
 輝は天津甕星の言葉をじっと待つ。
 その言葉のいかんによって、輝の中にある予感にも似た考えは確信へと変わってしまうかもしれないのだから。
 天津甕星の見た未来、それは……。
「この人工島の崩壊……そしてそれにより東京湾の楔(くさび)を失った事で起こる天変地異と東京沈没。そして……」
 輝は祈るように待った。
 学園島の崩壊、東京沈没、それだけでも最悪の事態だがもし、もしも更に先があるとしたら、それこそは――
「赤道上に位置する海抜10m以下の地域の沈没。地球の滅び」
「なっ……」
「人もラルヴァも、恐らくは誰一人生き残れない」
 タイムスリップ、時間跳躍の思考実験を論ずる時、二つの仮説がある。
 それは『親殺しのタイムパラドクス』等に代表される、時間を移動する事が出来た場合に起こる矛盾を説明する為の理論だ。
 一つは平行世界(パラレルワールド)説。時間を渡り過去に移動した時点で、そこから別の歴史が枝分かれし、互いに平行世界となり不干渉な別の歴史が始めるとする理論。
 もう一つは帳尻が合う様に出来ているとする説。過去に戻り誰かや何かを破壊しても、他の誰かや何かがその穴埋めをするように現われ、結局、元と同じ結果になるとする理論だ。
 今回、天津甕星の言う「運命は覆せない」と言う言葉が正しかった場合、あの時、1999年に『人間が勝ってしまった』事の穴埋めが今も続いていると言う事になる。
 理由も原因も不明なまま現われ続けるラルヴァ。何故人間を襲うのか。何故ラルヴァに対抗できる力を持った人間が生まれ続けるのか。
 もし、その答えがそうであるならば。あの時起こるはずだった事とは、地球にとって人類とは――。

「1999年に起こらなかった事が……今、起ころうとしている」



 午前中の講義も終わり、食堂で二人は食事を取っていた。
「しかし、その服装は何とかならないのですか?」
「何とかとはどう言う事だい?」
 机に並んで講師と謎の羽織袴の人物が揃ってラーメンを啜(すす)っている様子は中々にシュールな光景だ。
 周囲の生徒達や同僚からも好奇の視線が送られているが、誰一人話しかけてこようとはしない。
 恐らく、輝の隣に座っている人物の恰好もあるが、男か女か分らない風貌も、声をかけづらい雰囲気に貢献しているのだろう。
「朝からずっと目立って視線が痛いです」
「ふむ……」
 だと言うのに、当の本人は周囲の視線などどこ吹く風、何も気にせず振舞っていられるのだから凄い。
 神と言うだけあって大物なのか、それともただ面の皮が厚いだけなのか。
「ならば先生が私に服を買ってくれるなら、着替える事も吝(やぶさ)かではないよ」
 後者だったようだ。
 輝は気持ちを切り換えて、午前中に考えていた事を隣の図々しい男女?に話す。
「先程、赤道上と言いましたが、白道(月の軌道)は黄道から約5.8度ほど傾いています。そして黄道(太陽の軌道)は赤道から約23.4度の傾きです」
 地球の地軸が傾いている事は周知の事実だが、月の軌道が太陽の軌道とずれている事を知っている者は意外と少ない。
 この傾きが日食や月食の起こる頻度とも関係しているのだが、それは今は関係の無い話なので割愛する。
 つまり、月が接近してその重力の影響を受けやすい地域は決まっている事になるのだ。
「潮汐力の計算は専門外ですが、単純に位置関係から言って水没する地域は赤道上から約29度付近にある都市。つまり、北緯29度から南緯29度上にある都市が影響を受ける事になりますね」
 そこまで輝が言って、天津甕星はほぅと感嘆の声を漏らした。
「やっぱり先生にお願いしたのは間違いじゃなかった」
 上機嫌に箸をタクトのようにクルリと回し天津甕星は輝に言った。
 天津甕星は占星術の心得はあっても天文学的知識はそれほどでもない。故に天文学に明るい輝の知識の一端を垣間見た事で、自分の余地は間違っていなかった事を再認識できたのだ。
 しかし輝はそんな喜ぶ天津甕星に水を注すような一言を言う。
「いえ、月の距離によって結果は二通りあるのです。今のは良い方の結果ならそうなる、と言うだけの話です」
「良い方?」
 そう、今輝が言ったのは良い方に転んだ場合の結果だった。
 どちらにせよこのまま月が接近して重力の影響を受ければ、世界の都市は壊滅的打撃を被る事となる。そもそも月が接近し続け地球に落ちた場合など、それこそ人類滅亡だけでは済まされない。
 しかしそこまでの自体は考えにくい事だった。
 現在のバランス点から月を引いているだけでも人知を超えた力が作用していると言うのに、これ以上バランスの悪い位置に移動させる事は、例え神でも不可能だろう。
 それより危惧すべきは別の問題だった。
「えぇ。月は近づいてくれば月の重力の影響も大きくなりますが、同時に公転周期も早まり遠心力も強まります。つまり月が接近している原因を除去できれば、月は再び現在の準安定軌道の距離まで戻ってくれるのです」
「ふむ……それまでにこの現象を引き起こしている原因を特定し、取り除けばよいと言う訳だね」
 そうだ、それまでに原因を特定し解決すれば良い。速ければ早いほど被害は少なくて済む。
 幸いまだ月の重力の影響は出ていないように見える。今の内に原因を特定しなければならないのだ。
(だがもし月がこのまま接近し続け地球の大気圏にまで近づいたとしたらどうなる? その時は最悪……)
 万が一こんな事が出来る人物がいて、この現象が人為的現象であった場合、そしてその人物が物理学や天文学の知識を持っていた場合、最悪の事態になりかねない。
 学問の発達における思考実験は時に、無意味とも思える知識を人に与える。「人間の力では不可能だが、もしそうなったら」そんな空想の世界の結果を見せてくれる。
 本来ならその空想の世界は実現される事は無い筈だった。だが今は人外が闊歩し人は人を超えた力を身に付ける時代。
 人の英知を悪用しようとする者が現われても何らおかしくないのだ。
「それでは先生。悪い方の場合も聞こうか」
「えぇ、そうですね。悪い方の場合、それは――」
「あ、せんせー!」
 と、二人の後ろから能天気で大きな声がかけられる。
 振り返ってみるとラーメンチャーハンセットをトレイに乗せた、ショートヘアーで雪焼けの肌が見るからに健康そうな一人の女子生徒が立っていた。
 東雲ヶ原睦月(しののめがはらむつき)、輝と同じ天文学部に通う三年目の女子だ。
「おはよう、睦月くん」
 皮肉混じりにおはようと言われながら「たはは、おはよーございまーす」と言って二人の向かいの席に座る。
 この生徒も輝と同じ研究室に通うようになった一人だ。多少ルーズな所はあるが、明るくいつもニコニコしていて、少し子供っぽい所もあるが良い生徒だった。
 真面目で付き合いの悪い輝とも、こうして歳の差も気にせず気さくに話しかけてくれる。
 単に礼儀作法を知らないだけかもしれないが、不思議と憎めない人懐っこさと可愛さがあるこの生徒を、輝は密かに気に入っていた。
「今朝の講義、来ていませんでしたね。どうしたのですか?」
「てへへ……ごめんなさい、寝坊しちゃって」
「まったく、貴女と言う人は」
 そう言いながら輝は今朝の講義で配った資料のプリントを鞄から出して睦月に渡す。
 睦月は「えへへ、ありがとせんせ。そーゆー優しい所好きだよ」などと言って年上をからかっている。そして輝の方も怒りながらもどこか楽しそうに受け答えしている。
 その二人のやり取りをジト~っとした目で見ているのが、すっかり蚊帳の外になってしまった天津甕星だった。
「せんせー、隣のその人は?」
 その視線に気付いたのか、睦月はさっきから輝の隣に居る羽織袴の謎の人物に意識を向けた。
「あぁ、この人は――」
「天野甕(あまのみか)だよ。ミカで良い」
「ミカさんですね。私東雲ヶ原睦月って言います、宜しく」
 二人はにこやかに握手すると再び机に座って天津甕星――甕(ミカ)は残った伸び伸びのラーメンを一気にかっ食らった。
「え? あの……」
 甕が何故偽名など使ったのか?その理由を聞こうと思った輝だったが、逆に甕の方からその説明はなされる事となった。
 甕は輝の耳をちょいと引っ張り寄せると、小声で睦月に聞こえないよう耳打ちした。
(神――ラルヴァだと分ると色々面倒だからね。遠縁の親戚と言う事にしておいてくれ)
 輝の耳元に口を近づけ秘密の会話をしている光景を見てカチンと来た睦月。
 今度は自分の番だとばかり机を乗り出して反対側の輝の耳元に自分の口を近づける。
(せんせー、この人誰ですか? もしかして先生の恋人ですか?)
 こちらも甕に聞こえないようボソボソと小声で話す。
 輝の耳元から顔を離した睦月はチラリと甕の方を一目見ると、また席に座って猛然とラーメンとチャーハンを食らい出した。
 そんな様子のおかしい二人におろおろしながら、輝は甕に言われた通り睦月に説明し始める。
 何故自分がこんなにおろおろしなければいけないんだ?と言う疑問もあったが、精神的にそれどころでは無かったので疑問はすぐに消えた。
「こ、この人は私の遠縁の親戚で……えぇっと、異能力が発現したからこの学園に入る為に見学に来ているんだ」
 取り敢えず問題なさそうな説明を睦月にする。
 そうして説明している間にも二人はニコニコと向かい合っているのだが、表情とは裏腹に何か不安を掻き立てられる空気だ。
「異能力? へー、すっごいですねー! どんな力に目覚めたんですか? 私興味ある~」
「星占いの異能力だよ。まぁ……的中率はほぼ十割に近いかな」
「すごーーーい! それって恋愛とかも見られるんですか? 今度ぜひ見て下さーい」
「お安いご用だよ。何だったら今夜にでも見ておいてあげよう」
 「フフフフフ」「アハハハハ」と仲良さ気に笑い合う二人だが、その間に流れる空気は何故か緊張の糸が張り詰めたように重い。
(な、なんだ? この空気は……二人とも笑ってるはずなのに空気が重い……)
 いつの間にか三人の周りには半径1m程の近づけないフィールドが形成されており、学食に集まる学生達も触らぬ神に祟り無しとばかりに見もしない。
 星見空輝29歳。未だ女心の読めない彼女居ない暦=年齢の独身であった。





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